毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

同じ気持ちになることの正しさと間違い

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映画『A.I』より

最近、映画をよく見ている。Amazonプライムに加入したので、その中にある映画は見放題だ。

コロナウイルスのせいで何もかも自粛中のご時世なので、同じように映画を観ている時間が増えたという人は多いのだろう。ツイッターで、以下のようなタグがはやっていた。

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フォロワーさんの中にも、このチャレンジをされている方がちらほらいて、それを見ているだけでも楽しい。

私もやってみようかなーと思い、一番最初の「覚えている中で最初に観た映画」を考えようとした。が、びっくりするくらい覚えていない。

小学生の頃は、知り合いの人だかなんだかが毎夏子ども映画のチケットをくれたらしく、母が私と弟を連れて見せに行ってくれていたのは覚えている。しかし、それがなんの映画だったのかとなると、まったく覚えていない。

おそらく、本当にどうでもいい映画だったのだろうと思う。あるいは、私の感受性の問題だろう。

 

子供の頃に映画館に行ったことを強烈に覚えている映画というと、私は『A.I』(スティーヴン・スピルバーグ監督)になる。2001年公開だから、当時私は中学1年生だったはずだ。

私の両親は洋画派で、映画館へ映画を見に行くとなると、決まって洋画だった。しかも、字幕派で吹替はいっさい見せてくれなかった。

いくつの頃かはわからないが、字幕の漢字が時々読めないなぁと思っていた記憶がある。私でそうだったのだから、3つ歳下の弟は、もっと読めない漢字が多かっただろう。しかし、自分たちが見たいものを見る両親であった。

 

母親はスピルバーグが大好きで、とにかく映画らしい映画、派手で大衆的な映画が好きな人だ。父の映画の趣味は、あまりわからない。母よりは文化的な映画が好きらしいが、知ったかぶりばかりするので、私は彼の本当に好きなものがよくわからなかった。

ただ、2人とも映画自体は大好きで、リアクションが大きい。とても感情的で、映画館でも声を出したりした(今思うと、困った人たちである)。

そんな両親だから、2人とも『A.I』のラストで大号泣していた。ネタバレになるので詳しくは言えないが、AIの子どもが母の愛を求めた末に……という、悲しくも美しいラストだった。私も子どもながらに感激して、泣いた。

 

しかし、映画館が明るくなると、弟だけが全く泣いていないことがわかった。両親はこのことにとても驚いたようだ。あのラストで感動しなかったのか? 悲しくならなかったのか? と、弟に言い、さらには、あれで泣かないなんて、心がないのではないか? と言っていた(子どもにそういうことを言う人たちだったのだ)。

 

子どもが親の愛を求めて……という内容に弟が感動しなかったので、より両親は不満に思ったのかもしれない。あるいは、弟は当時小学4年生だったのだから、あの内容があまり理解できなかったのかもしれない。

それはともかく、では私はその時どうしたかというと、たしか両親と同じようなことを弟に言ったように記憶している。つまり、あれで感動しないなんて信じられない、とか、そういうことを言ったような気がする。

今思い返すと、ひどいことを言ったなぁと思うのだが、当時の私はけろっとしていたはずだ。両親と同じように、私もまた、そんな子どもだったのだ。

しかし、このことは私の中でずっと引っかかっていたのだろう。私が『A.I』のことを覚えているのは、映画の内容よりも、やはりこの実体験のせいだろう。

 

私はあの映画で泣かなかった自分を想像できない。もし自分が、あの時の弟の立場だったら、などということは、むなしい仮定の話としか思えない。

しかし、もし泣いたのが自分だけで、他の家族がけろっとしていたら?

こう思うと、ちょっと恐ろしくなる。

私は自分が泣いたことを恥ずかしく思ったかもしれない。もしかしたら、泣くまいと隠そうとしたかもしれない。しかし、やはり泣いていただろう。

そして、それを家族に批判されたり、あるいはからかわれたりしていたら、とても傷ついていたと思う。

 

それは単純に、自分の気持ちをからかわれたということでもあろう。しかし、自分1人が泣いて、あとの3人が泣かなかった、という状況が、私をより絶望的な気持ちにさせたと思う。

こう思うと、やっぱりあの時、弟を非難したことを悪かったなぁと思うのだ。

 

 ***

 

コロナ対策でどこも汲々としている中、ときどき感情や絆を押し付けているのでは、と思うメッセージがあって引っ掛かりを覚える。

例えば、今はもう見なくなったが、「大切な人のために、家にいよう」というのもそうだったのだと思う。一見、なんの変哲もないメッセージだが、「大切な人のために」というのがダメだったのだと思われる。

大切な人がいなくても、家にいなければならないのに、勝手にそういう名目(?)にされることに違和感があったのだ。私も基本はぼっちだし、家族大好きという人間でもないので、「私はそんな気持ちでやっていない」という気持ちは非常にわかった。

そういう問題点があったから、あのメッセージを今では見かけなくなったのだろう。

 

感情を押し付けられたり、あるいは逆に否定されたりすると、どうも人間は強い違和感や反発を覚えるようだ。

そしてそれは、上記の例でもわかるように、それが行為としては正しいことだったとしても、そうなのだ。

 

そんな時、「私はそんな気持ちではないですよ」と言えたらいい。あるいは「みんなはそうかもしれないけど、私は違うよ」と受け流すことも一つの手だろう。

問題は、自分が少数派の立場だった時である。上の例で言えば、「大切な人のため」という理由が受け入れられない人。これは「誰しも、大切な人がいるはずだ」という前提のもとにあるメッセージなので、厄介なのである。

圧倒的多数に対して、自分がマイノリティの立場である場合、気持ちそのものものが伝わらなかったり、あるいは否定されたりする。はたまた、気持ちだけでなく、事実そのものが歪曲されることもある。

 

 

上では私のささいな体験を書いたが、コロナ騒動による危機的状況になって、大なり小なりそういう問題を目にする機会が多くなった。

「みんながそのはずだ」と思うとき、そう思った人はマジョリティの側にいるのだ。そして、それだけで人は権力のようなものを持つのだと思う。

そして、マイノリティの人が(あるいは社会的弱者が)その権力に立ち向かうのは非常に難しい。前提が違うのだから、認識から説明しなければならないし、説明をしても伝わらないことが多いのだろう。

事実を客観的に説明できれば、もちろん一番いいし、それで取り合ってくれなかったら、それは相手が悪い。

しかし、上記のように「気持ち」の違和感だったり個人差だったりするものを説明するとなると、マジョリティ側からしたら、真意がつかみにくい場合があるかもしれない。あるいは、言いがかりだとはなから相手にしない、失礼な人もいるかもしれない。

しかし、その「気持ち」は確かに存在する。あるいは、誰しもが持っている(はずだ、という)気持ちが「ない」こともまた存在する。

 

問題は、そういう時に、マイノリティ側はその「気持ち」を共有したいのではない、ということだと思う。

マイノリティ側は、あなたもこんな気持ちになってくれ、と要求しているのではない。あるいは、こういうメッセージで私は嫌な気持ちなった、とクレームをつけたいわけでもないと思う(もしクレーマーだったら、それは無視すればいい)。

では、マイノリティ側がそんなときに言いたいこととは、いったいなんなのだろう? 

私は、決めつけないでくれ、ということだと思う。ないことに(あることに)しないでくれ、事実を歪曲しないでくれ、自分に嘘をつかせないでくれ、ということだと思う。その上で、ちゃんとした対応を望んでいるのだと思う。

 

 ***

 

私は今まで、ツイッターで動物の動画や写真をアップするアカウントをフォローしていなかった。しかし、コロナが流行するようになってから、秋田犬の写真をアップしているアカウントをフォローした。

そのアカウントさんがアップする秋田犬の画像を見ていると、本当にかわいいなぁと思う。そして、この犬の写真になら、誰も悪い感情や嫌な感情を持ったりしないだろうと思う。とても安心である。

 

 

上に書いたように、私の両親はちょっと問題もある人たちなのだが、私は両親とのいい思い出もたくさんある。

その一つとして、母が本当に楽しそうに映画を見るのは、とてもいいことだったな、と思う。彼女はわくわくする映画が大好きだったので、家で『ジュマンジ』や『ハムナプトラ』、『ジュラシックパーク』などを一緒に見ると、人一倍喜び、本当に楽しかった。

私が面白い! と思っているものを、母も全力で面白い! と思っているのがわかると、それだけでものすごく安心感が得られたのだと思う。

 

 

基本的に、一緒の気持ちになる、ということはとても心地よいことなのだろう。

安心できるし、難しいことを考えなくていいし、自分に自信が持てる。困難なことにも、前向きに取り組める。いいことづくめである。

ただ、みんながそうではない、という事実を認めたがらない人たちが多すぎる。認めたがらない人はまだかわいい方で、その存在を無視しようとしたり、意図的に分断して対立を煽り立てたりする人もいる。恐ろしいことだと思う。

しかし、私もまたそういう恐ろしい人間に、いつでもなりうる。というか、気を抜くとたびたびなっていると思う。

その恐ろしさを忘れないようにしたいと思う。

 

 

 

すべての小説を社会的に読む

 

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

  • 作者:カミュ
  • 発売日: 1969/10/30
  • メディア: ペーパーバック
 

 コロナウイルスの大流行により、世界中でカミュの『ペスト』が読まれているらしい。

 

私はこの作品を読んでいないのだが、あらすじを見てとても興味を引かれた。

「疫病の大流行」という異常で理不尽な状態が、まさに今の私たちの現実と重なることは想像がつくからだ。

普通ならばその異常な状態に私たちの方が入っていかなければならないが、今の状況だと、私たちがその世界に入ろうとせずとも、時刻や場所をスライドさせるだけでよい。実感としてわかること、同じだと感じること、異なると感じること、それを味わうだけでもとても面白い読書になると思う。 

コレラの時代の愛

コレラの時代の愛

 
復活の日 (角川文庫)

復活の日 (角川文庫)

  • 作者:小松 左京
  • 発売日: 2018/08/24
  • メディア: 文庫
 

同じような理由で、『コレラの時代の愛』(ガブリエル・ガルシア=マルケス)や、『復活の日』(小松左京)なども今読まれているらしい。前者はコレラ流行の時代を背景とした恋愛小説であり、後者はウイルスの脅威による人類の危機を描いたSF作品である。

 

コロナウイルスの影響で、多くの人がストレスを抱えている。

何より不安なのは、「これからどうなるのかわからない」ということだと思う。未知の状況で自分の感情を表明するのは疲れる。うかつなことは言えないし、誰だって人を傷つけたくはない。

そんな中、「本当は」人はこんな状況で何を思うのだろう? ということを、文学の中に求めてみるのもいいのではないかと思う。もちろん、そこにはっきりとした「正解」があるわけでなく、それを読んで自分はどう思うか、を感じられればいいのではないだろうか。

 

 ***

 

通常ならば、これらの作品で描かれる状況も、ある種の極限状態を描くための「設定」としか思えないかもしれない。たとえば、あと10日しか生きられない状況で人は何をするかだとか……いきなり教室が丸ごと異世界にワープしてしまってどうしようだとか……そういう、ある種の強制的な力によって作り出されたものだと感じるかもしれない。

しかし、現実の方がフィクションの状況に近づく時、それは「設定」ではなくなることがある。

作中のキャラクターは「個」でありながら、同時に社会的な存在だ。これは当たり前のことなのだが、私はこの意識がちょっと欠けているらしく、最近もっと気を付けたいと思っていることでもある。

 

ジョーカー(字幕版)

ジョーカー(字幕版)

  • 発売日: 2019/12/06
  • メディア: Prime Video
 

たとえば、私は去年話題になった映画『ジョーカー』にもそのことを感じた。

これはバッドマンシリーズの悪役「ジョーカー」が誕生するまでを描いた映画である。アメコミ原作でありつつ、現代社会への批評や警告が盛り込まれていると感じて、私はとても好きだった。

 

しかし好意的な評がある一方、批判も噴出し、人々の感想が分かれていたのが興味深かった。主人公のジョーカーことアーサーの行動に共感しすぎるあまり、テロを肯定しかねない作品だとか。どれだけアーサーに同情すべき点があったとしても、この主人公には共感できない、という意見だとか。

もっともわかりやすいのは、所得の高低である。単純に言って、視聴者が低所得であるほど、ジョーカーの行動に共感しやすいのは想像できる。低所得の人々(私もここに含まれる)にとって、アーサーはキャラクターであると同時に「もう一人の自分」であるからだ。

そういう人にとっては、この荒廃した世界や、ジョーカーの行為も「リアル」だと感じられる。それは設定ではなく、「今の私の状況」として感じられるからだ。

 

ただ、『ジョーカー』はそこからの自己批判が弱く、客観性に欠けていることは否めない。

アーサーは「ジョーカー」になって本当にダークヒーローとなったのか? 結末ははっきりと描かれず、すべては視聴者にゆだねられている。

 

 

こちらはノーベル賞作家のノンフィクションと、そのコミカライズ作品である。独ソ戦に参加した女性たちへの膨大なインタビュー集の漫画化だ。

私はコミカライズの方から入り、その出来栄えを素晴らしいと感じて、多くの人に手に取ってほしいと感じた。

しかし、この漫画化に関しても様々な意見が出ていて、これは私の予期していなかったことなので驚いた。

 

この作品は絵柄がとてもかわいく、実は私も最初見たとき「ちょっと女の子たちが幼く描かれ過ぎているのではないかな」という抵抗はあった。

しかし、読むにつれてまったく気にならなくなった。表現の繊細さ、漫画家さんが誠実にこの作品を描こうと向き合っていることを、コミカライズのすみずみから感じたからである。

 

ところが、コミックが発売されると、この作品を「戦争で戦うけなげな女の子たちの話」として消費している人たちに対する批判が上がっているのを目にしたのである。

戦争モノをそういう見方で楽しむこと自体を、私は否定しない。私にも似たようなところはあって、たとえば私はやくざ映画が好きだ。

常人からするとめちゃくちゃな理由(義侠心とか)で死んでいく男たちにドキドキしてしまうのだ。それはたいてい、理不尽で暴力的なことなのに、私はそれをかっこいいと思ったり、それに感動したりするのだ。

 

しかし、私が言いたいのは「戦争を描いた作品を美少女ものとして楽しんでもいいではないか」ということではない。

「戦争漫画を美少女ものとして消費すること」と「戦争というもののリアリティを受け止めること」は、そもそも同列に語られるべきではない。

これは全く違う次元の話なのだ。問題は、「美少女ものとして消費すること」が戦争軽視や、美談につながってしまいやすいことなのだと思う。

 

この作品でも外部的な視点が弱いことは指摘されており、その端的な例として、ソ連の敵国であったドイツ側からの視点が入っていないことなどが挙げられる。

彼女たちが戦ったのは、そもそもなぜなのか? 彼女たちをそうさせたのは、そもそも国家が戦争を始めたからではないか? では、どうして戦争は始められたのか? 「かわいい女の子」の話として読むと、その背景まで考えることはなかなか難しい。

 

私たちにとっては、ここで描かれる「戦争」もファンタジーにしか感じられないのかしれない。単純に、美少女を性的に消費することをけしからんとか、想像力が足りないとか言っているのではなく、作品に対して社会的な視野を持つことが必要だと思うのだ。

そしてこれは、私自身への戒めでもある。

 

 ***

 

現在カミュの『ペスト』の状況がリアリティを持っているように、戦争を描いたさまざまな作品に、私たちの状況の方が近づいていかないことを願うばかりだ。

今回の感染問題で、多くの人が日本という国家のあり方に疑問を持った(あるいは深めた)のではないかと思う。

 

自分も社会の一員だと自覚することは、私にはいまだになかなか難しい。が、そのせいで今、自分で考えることを丸投げをしてきたツケが回ってきているのかもしれないなぁ、とも思っている。

 

一つ一つの作品にその時代背景があるように、私たちの誰もが社会的な存在であることを、忘れないようにしたいと思う。

 

創作の耐えられない軽さ

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映画『エンドレス・ポエトリー』より

エンドレス・ポエトリー』という映画を観て驚いたのは、どこへ行っても詩人が大歓迎されていたことだ。作中では様々なタイプの芸術家が登場するが、主人公が「あなたは?」と問われて「僕は詩人です!」と答えると、周りは「素晴らしい!」と大騒ぎする。

詩人! 詩人ですって! 素敵だ!

こういう世界があるのだなぁ、と私は素直に感動した。ホドロフスキー監督の作品世界が独特であることを差し引いても、詩人がこのように大歓迎される世界があるなんて、私はこれまで想像できなかったのだ。

 

 ***

 

現代において、自分の趣味を「創作活動です」と公言できることは、まずない。

少なくとも、会社員になろうとして就職活動をしている面接中に、「趣味は?」と聞かれて「詩を書くことです」と答える人は、まずいないだろう。

「絵を描くことです」ならばどうか? 詩と比べれば相当ハードルは下がるが、それでもやはり言いにくいことに変わりない気がする。

では、社会でとは言わずとも、友人や家族の間ではどうか? プライベートな人間関係において、それらの趣味を言うことは自然なことだろうか?

やはり、これも相当親しい間柄でないと難しいように思う。

 

つまり、「自分で何かを創り出しています」ということは、現代社会では隠すべきとまではいかなくても、あまり表に出すべきものではないらしい。

これは別に、恥ずかしい作品を作っているわけでなくとも、そうらしいのだ。小説や漫画は明確なストーリーがあり、どうしてもそこに自意識が露呈しやすい。しかし、例えば絵画ならどうか? あるいは、音楽ならばどうか? いわゆる歌詞のないインストロメンタルならば、作品から自意識が読み取られることはないのではないか?

 ……逆に考えてみよう。もし、自分が「あなたの趣味は何ですか?」と尋ねて、相手から「作曲です」という答えが返ってきたら。私は驚くと思う。驚いて、それから? ちょっと警戒するだろう。相手の出方をうかがうような気がする。

やはり、「創作する」という行為、それも特にオリジナルなものを創り出すという行為そのものが、何か腫れ物に触るような感覚を呼び起こすらしい。それはなぜなのだろうか?

 

 ***

 

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映画『イエスタデイ』より


ある日、友人のKちゃんから、映画の『イエスタデイ』を観たが、不満を抱いたという話を聞いた。

この映画は、なぜかザ・ビートルズが全く知られていない世界へ来てしまった主人公が、ビートルズの歌を発表して有名になっていくというものらしい。

Kちゃんいわく、主人公がビートルズの歌を発表する部分が納得できないとのこと。そこに葛藤が見られないのが気になってしまうのだそうだ。

 

これは、主人公がビートルズの曲をパクっていることに罪悪感を覚えていないのがけしからん、という意味ではないのだという。

Kちゃんは言う。

「この主人公のオリジナリティはどこにあるの? 彼はなんのために音楽をやってるの?」

 

彼女の言いたいことを、私はわかったと思った。

おそらく、Kちゃんの中では、創作はアイデンティティと密接に結びついているのだ。そしてそれは、私も同じだ。「わざわざ」自分で音楽を創り出している人間には、それなりの理由がないと納得できないのだ。

彼が何を表現したいのか、何のために音楽をやってきたのか、それが伝わってこなかったことに、Kちゃんはもやもやしたのだろう。主人公が発表するのが、世界でもっとも有名なバンドのザ・ビートルズの曲だろうと関係がない。主人公の創るものがどれだけ稚拙だろうと、そこにビートルズとの優劣はないのである。

ビートルズの曲を自分のものとして発表して、主人公は本当に満足できるのか? それで自身の創作への思いは満たされるのか? このような疑問を、Kちゃんは抱いたのだと私は推測した。ちなみに、Kちゃんは演劇をやっている人である。

 

 

しかし、この映画を観てこのように感じる人間は少数派だと思う。むしろ、「あの」ビートルズの作品を自分なんかが発表してよいのか……と悩む人が多数なのだろう。

逆に言えば、主人公にオリジナリティを求めるのは、創作に自らのアイデンティティを求めている人間だということができるかもしれない。

 

  ***

 

おそらく、一般的に創作活動を公にしないほうがよい、とされているのもこの部分が大きいのだろうと推測できる。

思春期にこっそりノートにポエムを書くことは、たいていの場合、人に「恥ずかしい」という感覚を引き起こす。もしかしたら、その詩は芸術的な価値のあるものかもしれない。しかし、その確率はとてつもなく低いことが、私たちにはわかる。

他者と自己の違いに葛藤し、自らのアイデンティティを見失いがちな思春期において、それらの言葉は自己の唯一性を探る意味合いを持っている。もし、その詩がとてつもなく陳腐なものだとしても、その詩を作れるのは自分しかいないのだ。そういう意味で、芸術は常に唯一のものなのである。

 

しかし、社会に出ると、それらの唯一性はほとんど不必要だということがわかる。

会社で求められるのは、業務に応じた能力であり、自分の代わりはいくらでもいるのだということがわかる。また、そうでないと社会が回らないということもわかる。

そのような世界において、誰かが「自分しかできないことをやりたい」というのは、端的に言って場違いであり、迷惑なのだ。

このことから、創作=自分はオリジナルだという意識=社会では迷惑なもの、という図式が できあがる。一言で言えば、協調性がない、自意識が強い、と思われやすい。そんなことを思われるくらいなら、それは表に出さないほうが賢いという選択になる。

けれど、どうしてそんな風に自己を偽らなければならないのだろう、とも私は思う。

 

 ***

 

私たちは社会的な営みの中で生活している。働くという行為は、その中で大きな比重を占めている。

しかし、ここまで考えてきて思うのは、それら社会的な営みとプライベートな営みがあまりきちんと分かれていないのではないか、ということだ。むしろ、プライベートな部分に社会的役割が侵食してきている。創作活動で収入を得ているなら話は違ってくるかもしれないが、そうでなければ、それらは住み分けができるはずのものだと思う。趣味と仕事には何の関係もないからだ。

それならば、会社で趣味を訊かれたときに「詩を書くことです」と答えてもいいはずではないか? それは「料理です」「テニスです」「旅行です」と言うことと変わらないはずだからだ。 

 

逆に言えば、これは仕事をしている時はプライベートなことを持ち込むべきではない、ということなのだろう。当たり前のようだが、それができていない会社や人は多い。

私のしている仕事も、業務に創造性やアイデンティティは必要ない。私はその場で必要とされることや、業務の効率化などという求めに応じて自分の役割を果たさなければならない。

それがきちんとできると証明できれば、たとえば趣味を創作だと公言することも可能なのではないか? 仕事をきっちりこなしつつ、創作を続けていく人が増えていけば、社会の目も変わっていくことだろう。

 

問題は、アイデンティティが不安定な人が創作をする傾向にあり、そういう人はそもそも会社で働くのに向いていないことが多い、ということだ。

アイデンティティの葛藤を抱えたまま大人になる人は、どれくらいいるのだろう? 「自分探し」という言葉が陳腐なものとしかとらえられないように、アイデンティティの模索も陳腐なものとしか受け取られないのだろうか。

しかし、ある種の人にとっては、それは常にとても現実的な問題なのだ。だからこそ、私たちは創り続けるのだと思う。

 

 

ハッピーエンドは世界と和解すること

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シェイプ・オブ・ウォーターのラストを、あなたはハッピーエンドだと思いますか?

※この記事内では、映画『シェイプ・オブ・ウォーター』の結末に触れています

 

最近は作家や漫画家など、いわゆる個人でフィクションを作成する職業の人も、ツイッターなどのアカウントを持っていることが多い。その人々のうち、少なくない人が社会的な発言をしていることに、私は今でも新鮮な驚きを感じる。

断っておくが、これは、創作活動を仕事とする人は政治的な発言や宗教的な発言をしないでほしい、という意味ではない。

では、なぜそんなことを思うのかというと、私自身が根本的なところで社会に無関心で、社会的なことから逃げるためにそういう職業に憧れている気持ちがあるからだ。

 

それら社会的な発言をしている作家さんたちは、社会的なことがわからないから、つまり社会的な問題について意見を言わなくてよいから、作家になったわけではないのだなぁ、と思うのだ。それが私にとっては、今でも驚きなのである。

 

 

この「新鮮な驚き」を言葉にすることを、私ははばかる。なぜなら、そこには私の職業差別的な偏見があらわになっているからだ。以下のように段階的に箇条書きにしてみた。

  1. 作家や漫画家で社会的な発言をしている人々が、自分の職業も社会に密接な関係があると理解していること
  2. 自分の立ち位置を理解した上で、社会に対して発言をしていること
  3. それらの人々も、(ごく一般の務め人と同じように)社会の一員として社会的なルールの中で生きていること

これらを一言でいうと、「作家や漫画家は、社会に適応できない人のいきつく職業ではないのだなぁ。彼らも私たちと同じ制約の中で生きているのだなぁ」ということになる。

 

 

自分がこんな偏見を持っているのは嫌だなぁ、とつくづく思う。なんでこんなひどいことを思っているのだろうか?

ここにはおそらく、作家や漫画家……というより芸術全般の職業は、社会的な制約から免罪されるという私の現実逃避があるのだろう。私は、そんな立場になりたいのである。

自分が社会的なルールの中でうまく生きられないことに対して、私は常に負い目を感じているのだが、そのことに悩みたくないのである。だから、芸術家にとんでもない幻想を抱き、そんな立場に逃避しているのだ。

その裏返しとして、芸術家という職業全般に、差別意識を持っているのだろう。勝手に自分の心理を投影して、芸術家なんてろくなものではない、という風に思っているのだ。

 

しかし、(当然のこととして)芸術家にそんな特権はない。

そもそも、無人島で自給自足の生活をするのでない限り、何人たりとも、社会的な制約を受けずに生きるのは無理である。

つまり、間違っているのは私だということは明らかなのだ。

 

 ***

 

私はたまに「社会に認められたい」と人に言う。しかし、大抵「?」という顔をされる。どうも、何かがよく伝わっていない印象を受ける。

友人のSさんに同じことを言うと、「でも、社会ってそんなに良いものじゃないよ?」と言われた。この言葉は、私の理解を進める手がかりになったように思う。

 

自分が社会的なルールの中でうまく生きられないことに対して、私は常に負い目を感じていることは、上にも書いた。しかし、これを素直に吐露することが、私はとても恥ずかしいのだ。そのために、私は「社会に認められたい」と婉曲な表現をしているのだということがわかった。

つまり、「キャリアを上げたい」や「社会的に成功したい」という意味で「社会に認められたい」と言っているのではないのだ。

Sさんが「社会ってそんなに良いものじゃないよ?」というのは、(たぶん)そういう意味なのだろう。キャリアアップや社会的成功が、能力の優秀さやある種の才能の上に成り立っているのはわかる。しかし、それは大きなプレッシャーや責任を伴うので、「そんなに良いものではない」ということなのだろう(と、思った)。

 

では、私の言う「社会に認められたい」とはどういう意味なのだろうか。

 

 ***

 

話は変わるが、ギレルモ・デル・トロ監督の「シェイプ・オブ・ウォーター」という映画がある。ファンタジックで幻想的なストーリーの中にグロテスクさや残酷さが感じられる作品で、第90回アカデミー賞で作品賞や監督賞を受賞した映画だ。

主人公のイライザは声で話せない女性で、清掃員としてある研究室で働いている。ある日そこに、半魚人のような容貌の、未知の生物が運ばれてくる。次第に<彼>と心を通わせていくイライザ……。しかし、そんな彼らを理解しようとしない人々の力により、2人はついにピンチに立たされる。

 

この映画を観終わったときに、私が強烈に感じたのは、主人公・イライザはこの世界に受け入れられなかったのだな、ということだった。

映画のラストで、イライザは銃に撃たれてしまう。つまり、この世界で「死んで」しまうのだ。

しかし、半魚人に治癒能力があったため、彼女は「生き返る」。映画は、「この世界ではないどこかで」 イライザが未知の生き物の<彼>と幸せに暮らすことを予感させるように終わる。

つまり、愛する人と結ばれる、というラストなのだ。ハッピーエンドと言ってもいいのだと思う。というか、一般的にはそう思うのかもしれない。しかし、私はこれをハッピーエンドだとは思えなかったのだ。

 

愛する人と結ばれるとしても、「この世界で」生きていけないのなら、それは幸福と言えるのだろうか?

私はそう思ったのである。

 

自分も社会の一員でありたい。この世界のルールを、私もわかりたい。それに順応して生きていきたい。

私が願っているのは、おそらく、そういうことなのではないかと思う。

「これからもこの世界で生きていけそう」と思えたら、それが一番いい。私が欲しいのは、社会的なことを知らなくても免罪される特権でもなければ、社会的な名誉や成功でもない。本当はただ、この社会にいることを許されたいのだ。

 

しかし、この気持ちをどう説明したらよいのだろう? これをストレートに言って、はたして人に理解されるだろうか。答えはNOなのではないか。

このことについて、私はどのように対処するべきなのだろう? おそらくは、根本的な部分で私は何か矛盾したものを抱えているのだと思う。それに向き合うことが、今一番必要なことなのではないか。

私は「それ」を見て見ぬふりをしている気がする。しかし、それは一体なんなのだろう。

 

富士山を探す旅 ――2泊3日静岡旅行

私は旅先でした会話とか、あるいは何気なく聞いた現地の人の会話だとかに非常にロマンを感じる人間なので、今回もそれら見聞きしたことを記録しておこうと思う。

とはいえ、静岡は都会で交通の便も良いところだったので、特におもしろいアクシデントは起こらなかった。自分のための備忘録のようなものである。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20191120195940j:image私は九州生まれ九州育ちの人間で、今まで富士山を見たことがなかった。

そのため、静岡駅に着けば、すぐに富士山が目に入ると思っていた。しかし駅であたりをきょろきょろしても、それらしき山が見つからない。いつか自然に見ることができるだろうと思っていたが、その後も私は静岡市で富士山を見ることはなかった(!)。

 

富士をきちんと見たのは、静岡市から沼津市へ行く途中の、電車の中であった。電車の車窓から、いつ富士が見えるか見えるかと待ち構えていて、富士市にさしかかったあたりで、ようやく初めて見ることができた。

鈍行列車だったので、乗り合わせていた人々はほぼ、地元の人たちだったのだろう。富士山を見るために車窓にへばりついていたのは、私だけだった。

 

富士市を走る電車から見る富士山はとても大きく、頂上に少しだけ雪をかぶっていた。見ていて思ったのは、北斎の絵の通りだ、ということだ。とても大きく、まわりに並ぶなにものもない。その姿はまさに「ご神体」 という感じだった。

 

この時にもちろん写真を撮ったが、あとで見てみるとまったく上手く撮れていない。しかし、私は気にしなかった。あれだけ大きい富士なのだから、沼津でも綺麗に見えるだろうと考えていたのだ。

ところが、いざ沼津に着いてみると、空は晴れているのにちょうど富士山に雲がかかっており、まったくその姿が見えない。見えるのはその広大な裾野のみだ。

太宰治が「富嶽百景」で「裾のひろがつてゐる割に、低い。あれくらゐの裾を持つてゐる山ならば、少くとも、もう一・五倍、高くなければいけない。」と書いていたのが思い出され、私はまた、あの通りだ、と思った。

 

しかし、富士市で見た富士は本当に美しかった。そして、透き通るように青かった。

私の記憶の中に残っているのは、あの青く美しい富士山である。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20191120200717j:image芹沢銈介美術館は登呂遺跡に隣接しており(というか、むしろ遺跡の敷地内にあり)、周辺はたいへんのどかな雰囲気だった。

なにしろ、弥生時代の集落が住宅街と「お隣さん」ともいうべき気安さでそこにあるのだ。時間を忘れるような風景である。

 

そんな遺跡と細い車道を一本はさんだところに、いかにも古民家風のお餅屋さんがあったので、入ってみた。なんと、表には本物の水車が回っている。

中に入ってみると、これは本物の古民家だとまたびっくりした。入ってすぐは店舗になっていて、奥にお座敷があり、大きな囲炉裏が切ってあるのが見える。

 

店員さんに、4時に店が閉まりますがよろしいですか? と言われた。時計を見ると、あと40分ほどで午後4時である。私は、大丈夫です、と答えて座敷に案内してもらった。椅子の席もあったのだが、こういうところに来たからには、お座敷で食べるのがよいだろうと思ったのだ。

お客さんは椅子席に一人いるだけで、私一人でお座敷を独り占めである。

 

腰を下ろすとすぐに店員さんが緑茶を持ってきてくれたのだが、阿部川餅を頼むと、これまた急須に入れた緑茶がついてきた。私はお茶が大好きなので、大変うれしかった。

お餅を食べ終わる頃に、また店員さんがやってきた。他にお客さんがいないせいだろう、また湯飲みにお茶を注ごうとするので、私はあわてて「まだお茶残ってるので大丈夫です」と言った(が、注がれてしまった)。

 

とても素敵な建物ですね、歴史のあるお店なんですか? と尋ねると、この民家は築200年のものを福島から移築したのだという。

二階もありますので、ぜひ見てみてください、とすすめられる。お言葉に甘えて、私は二階へも上がってみた。

誰もいないお座敷で、しばらくぼーっとした。樹齢何年なのかと思うほどの、木の幹を輪切りにした大きなテーブルがある。窓からは、表で回っている水車が見下ろせた。昔のものはスケールが大きい。

サインが飾ってあったので近づいて見てみると、森繁久彌のものだった。

 

 ***

 

今回の静岡旅行では、文学館に4館、美術館に1館行った。

その中でよく話をしたのは、井上靖文学館と中勘助文学記念館の学芸員さんである。

 

f:id:hikidashi4:20191120200020j:image井上靖文学館の学芸員さんは、私と同じ年くらいの女性だった。

眼鏡をかけた清潔感のある女性で、入館料を支払うと「そこの栞から、好きなものをおひとつ取っていかれてください」と言われる。見てみると、表に50音の文字が書かれたカラフルな栞が並んでいた。私は「り」の栞を取った。裏返すと、井上靖の言葉の引用が印刷されている。

 

旅情は、その時は砂漠の国の乾いた空気の中に香水のように拡散し、昇華し、今頃になって、私の心の上に霧のように降って来つつあるのであろう。  ――『わが一期一会』

 

この11月2日~4日の間には、「しろばんば祭り」として来館者はガラガラを回せるイベントが開催されていた。私も回してみると、『しろばんば』に「おめざの黒玉」として登場する黒飴がもらえた。

また、展示のレイアウトに手作り感があふれていた。展示物の壁紙は水をイメージしたと思われる水彩画で、手描きで描かれたものなのだろうと思われた。

 

そのほかにも、館内を見学しているうちに、自然と「ああ、この文学館は今、あの女性の手で成り立っているのだな」と私は思った。50音の栞(もちろん裏には50枚すべてに井上靖作品の引用があるのだろう)、展示物のレイアウト、イベントの発案……。

そこには、井上靖作品で文学館を盛り上げようとする努力が随所に見られた。明るく親しみやすいセンスが光っている。

実際のところは、どうなのかわからない。もしかしたら、今日はお休みしているほかの学芸員さんがいるのかもしれない。しかし、イベントや展示のセンスからして、それらはその日文学館で見たその女性以外の人(50代くらいの男性が2人いた)の発案ではないように思えたのだ。

 

ちょうど15時になる時、その学芸員さんに、館内ツアーをしますのでよかったらお聞きになりませんか、と誘われた。私は「聞きます」と言ってついて行った。

ツアーは他に親子らしき女性2人組(60代と40代くらいの女性)が参加して、話を聞いた。井上靖来館のエピソードなどを交えた、親しみやすく面白いツアーだった。

 

「私は静岡に来てもう4年になりますけど、いまだに富士山に慣れてないんです。きれいに富士山が見えると、いまだにハッとして、見とれてしまいます。富士山に慣れたら本当の静岡県民だと言われているそうですが、私はまだまだですね」

学芸員さんはそう言って笑っていた。私は、この土地の人ではないのだな、と思ってびっくりした。

 

どうしても気になって、帰りに館内販売の本を買うついでに、「井上靖の研究をされていたのですか?」と聞いてみた。

すると、本来は美術畑の人らしいということがわかった。もともと文学畑ではない方が、こんなに文学館を盛り上げようとしてくれていることを知れて、ありがたさでいっぱいである。

いろいろな人生があって、それにみな向き合っているのだな、と思う。

 

***

 

f:id:hikidashi4:20191120200041j:image中勘助文学記念館は、人気のない静かな山間にあった。背後は完全に山である。

しかし、中に入ってみると意外にも来館者が数人いる。その人たちに向かって、学芸員の方が解説をしているところだった。

私が入っていくと、その学芸員さんが出てきて「解説中なのですが、聞かれますか」と言われた。60代くらいの穏やかそうな男性で、いかにも文学が好きそうな人に見えた。私は「聞きたいです」と答える。

 話を聞いている最中も電話がかかってきて、その男性はすまなそうに詫びながら部屋を出て行った。あとでその人から聞いたところ、この文学館はその人が一人で管理されているのだという。

 

中勘助の生涯の説明を受けたあとにも、また続々と来館者がやってきていた。ちょうど静岡で「めぐるりアート静岡」というイベントがあっていて、地元の写真家の作品が展示されており、その影響もあったのだろう。

その人たちが学芸員さんの説明を受けた後、「とてもきれいなお家」と口々に記念館の建物をほめているのが聞こえた。中勘助も住んでいた一般的な民家がそのまま使われている記念館なのだが、家の中も非常に明るく古びた感じがせず、とてもきれいなのである。

見れば、さきほど私と一緒に解説を聞いていたご夫妻が、縁側でひなたぼっこをしていた。

 

私は中勘助の静岡滞在中のことを書いた資料がなかなか見つけられなかったので(滞在中に執筆した小説は読んでいたが)、この記念館でそれらの文章を見つけられないかと本棚を見ていた。

すると、ちょうど学芸員さんの手が空いたらしく、私に話しかけてきてくれた。

中勘助の静岡滞在中のお話などを聞いたあと、おもむろに学芸員さんは本棚の隣の棚の扉を開けた。何が入っているのだろう?

「これは中勘助が持っていたレコードなんです。これはSPレコードで、僕なんかが聞いていたのはLPレコードなんですけど……カセットテープはわかりますか?」

「わかります。聞いていました」

「LPレコードがカセットテープの前ですね。LPのさらに前がSP」

なるほど、これはレコード盤をしまっておく棚だったのだ。板と板の間が非常に狭いので、言われないと私は何をしまっている棚かわからなかっただろう。

それにしても、中勘助の私物がこんなに無造作に置いてあるとはちょっと驚きだった。私はまったく音楽に詳しくないので、勘助の趣味がどういうものかを味わうことができなかったのは残念である。

 

その後も、バスの時間まで館内をぶらぶらしていた。来館者の人が、展示してある写真について、「あそこに写っているの、あれ、私なんです」と学芸員さんに話しているのが聞こえた。

「えっ。へぇぇ。作者さんとお知り合いですか」

「いいえ、違うんです。友達がね、ここの展示がテレビに出ているのを見て、その中の写真に私が写っているのを偶然見つけたんです。それで、あなたが写ってるわよ! って連絡してくれたの」

人が、文学館を訪れる理由はさまざまである。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20191120200100j:image焼津駅から、小泉八雲記念館を訪れるためにバスに乗り発車を待っていると、運転手さんに男性が話しかけてきた。

見た目は30歳くらいの人に見えるのだが、話し方がひどく子供っぽく、たびたび運転手さんに「おじさん、お菓子ちょうだい」と言っている。どうやら知的な障害のある方のようだ。

それに対して運転手さんはうんうんと話を聞き、この前の休日はどこに行ったの? と尋ねた。男性はどうやら、どこかの海へ釣りに行ったらしい。この頃寒くなってきているから、ちゃんと上着を着ていくんだぞ。うん、わかった。それで、釣れたの? うん、あのね、……。

私はその会話を、とても心地よく聞いていた。やがて発車時刻になると、男性はまた「おじさん、またお菓子ちょうだいね」と言いながら別れていった。

 

さて、小泉八雲記念館に着くと、時刻がまだ開館前なので開いていない。

記念館の周りには、文化会館や民俗資料館などといった公共施設も建っている。すぐ隣は図書館だった。

私は懲りずに「ここから富士山が見えないかしら?」と思い、高台へ登ってみたが、やはり見えなかった。無念。

階段を下りて記念館の前に戻ってくると、図書館の前で開館待ちをしているおじさんに「まだ(開くまで)もう少しかかるね」と話しかけられた。

そうですね、と返すと「昨日、花火があっただろう?」とおじさんは話を続ける。

「え、そうなんですか?」

「そうだよ、見なかった?」

話してみてわかったのだが、このおじさんは口調が不明瞭で、とてもどもる人だった。服装もよれよれである。図書館の開館待ちをしている他の人たちも、私たちのことを知らんふりしていた。正直、ちょっと怖いな、と私は思った。

しかし、そう思った瞬間に、先ほどのバスの運転手さんと男性の心地よい会話が思い出された。

ここで私がこのおじさんと話したからと言って、なにか不都合はあるだろうか? 特に何もないように思える。

「実は、私は福岡から来たんです」

私は話を続けることにした。

「えっ。お。福岡」

すると、おじさんは想像以上にびっくりした様子で、しばらく口をもごもごさせた。そして、花火大会が台風19号の影響でずっと延期されていたこと、それが昨日ようやくあったことを教えてくれた。

おじさんはさらに何かを考える様子で、「福岡と言やぁ、まつ……せい……」と聞き取りにくい口調で何か言った。

松本清張?」と私は聞き返す。

すると、おじさんは今度ははっきりした口調で「いや、松田聖子」と言った。

おじさんにとって、福岡は「松田聖子の出身地」なのだなぁ、と思うとおかしかった。きっと、今でも松田聖子はおじさんにとってのアイドルなのだろう。

やがて、開館時間になって私はおじさんと別れた。もし、あのバスの運転手さんたちの会話を聞いていなかったら、このおじさんともこのような会話をしていたか、わからない。

何事もめぐり合わせである。

 

 

 

おしまい。

一般化する前に自己と他者の違いを認識しないといけないこと

f:id:hikidashi4:20191016125237j:imageここ最近、足しげく読書会に行っている。月一回、自分も主催者の一人である(主催者が2人いる)読書会は、2年以上続いている。

課題本があるタイプの読書会では、いろいろな発見がありとても楽しい。私は特に、人によって一つの作品でも読者としていろんな立場があるということが可視化されて楽しい。

登場人物の中でも、誰に共感し誰をわからないかというか。読者個人の属性(年齢、性別、職業、家庭など)によって、どのような傾向があるらしいか。そのようなことが、一つの本の感想を言い合うことで表面化される。

 

当たり前のことだが、同じ作品を読んでも、自分が持つ感想と、他者の感想は違うのだということに気が付く。

たとえば、先日は川端康成の『山の音』が課題本だった。私は非常に主人公に共感し、ラストの主人公の言葉に感動したので、それまで川端康成を苦手だと思っていたイメージが一変した。

しかし、読書会で他の人の感想を聞くと、むしろこの主人公に対して不満を持っているらしい人が多いことに驚いた。

この主人公は、60歳を超えた男性である。ほかの人の意見を聞いたあとだと、あらゆる立場が違うはずの主人公に、なぜ自分は共感したのかという疑問が浮き彫りになった。

それまで疑問とも思わなかったことも、他者と相対化することによって、はじめて自覚することができる。

 

  ***

 

話は変わるが、私はペーパードライバーである。

運転免許を取るのは大変だった。私はあまりにも運転が下手だったので、教習中に何度も泣いてしまった。また、教習が終わると疲労困憊して歩けなくなり、半時間ほどもじっと教習所の椅子に座っていた。

明らかにおかしいとは思っていたが、運転免許は必要だと思っていたので耐えた。しかし何より、十万以上の大金を払っていたので、それをパァにするわけにはいかないという思いが強かった。

 

それでも期限内に免許を取ることができず、どんどん追加料金を払わなければいけなかった。

ちゃんとやっていれば車の免許くらい取れるはず、という一般論は全く慰めにならなかった。何のためにこんなにつらい思いをしているのか、全くわからなかった。

 

自己の能力が他者と異なるのならば、自分の頭でその対策を考えなければならないということが、当時の私にはわからなかったのだ。

とにかく 大きな犠牲(お金)を払ったことが恐ろしく、どうにかしてその元を取らなければということしか考えられなかった。

それでも、なんとか免許を取ることはできた。解放感すらなかった。喪失感しかなかった。

 

 ***

 

今でも、どうして自分はこんなに何もできないのだろう? と考えることは多い。

人と同じようにやろうとしても、自分にはそれだけの能力が足りないのだということは、わかってきた。しかし、それだけでは解決にはまだ遠いのである。

 

思うのは、私の場合、自己を一般化しては駄目だということだ。

人と同じようにやっていればそのうち慣れるだろう、誰でもすぐにはできないのだし……という風にしていると、二進も三進もいかなくなる。

それよりも、自分と人との違いに敏感にならなければならない。そして、周りにもある程度、そのことを理解してもらう努力が必要らしい。

(とはいえ、どうして私だけそんな面倒くさいことをしなければならないのだろう? という気持ちは今でもぬぐえない)

 

 ***

 

しかし、読書会ではそれを自然に、負担なくやれるので、楽しい。

そこでは「あまり人と被らないように」「自分が感じたことを」言わなくてはいけない。

できるできないは問題ではなく、しかも他人がどう感じているかを聞くことで、自分と相対化できる。

社会人になって、一つの対象について複数人とじっくり語り合うということが、そもそもあまりないように思う。気が付くことは多い。

  

できることなら、日常生活の中でも、なるべく人との差異にプレッシャーを感じないようになりたい。しかし、それは私にはまだまだ、難しいだろう。

 

 

アンナ・カレーニナについての雑感

アンナ・カレーニナ』(トルストイ)の読書会があるので、その前に自分の雑感をひととおりメモしておきたいと思う。おそらく、ほかの人の意見を聞いたら、私は自分の見方を反省するべきだと考えようとすると思うので。

ネタバレを含みます。

 

トルストイについて

私はトルストイの文章をとても素晴らしいと思っており、特に登場人物の性格描写、心理描写においては神様のように思っている。

しかし、彼の生涯については何も知らなかったので、今回の読書会を機に、以下の伝記を読んでいる(まだ読み終わっていない)。

トルストイ 新しい肖像

トルストイ 新しい肖像

 

 読んで思ったのは、トルストイのような人物に生まれたら、きっと一生はめちゃくちゃになり、とても幸福には生きられないだろうということだ。

この本の中で、トルストイは生まれつき強すぎる自己愛のために悩まれされ、そのせいで感性も知性も大いに歪められ、とても正常な少年時代を送ったとはいえないと書かれている。さらに、それは成人になり壮年になり老人になっても治ることはなく、むしろ強くなってしまったと。

ひどい書かれ方であるが、おそらくこれは大体ほんとうのことだったのだろうと思えた。トルストイの独りよがりな善性、そしてある種の視野の狭さは、(書かれたものが大変すばらしいものであるにも関わらず)物語を読む上でもいつも障害になる。

しかし、トルストイの性格は私自身にもとても覚えのあるものだったので、私も自分もとても幸福になんてなれないのではないか、と読んでいて怖くなってしまった。もし間違った性格で生まれてしまったという人間がいるなら……と考えると、私はつらくなる。

 

アンナ・カレーニナ感想

大学の時に一度読んでいたので、今回は再読であった。何度読んでもトルストイの文章はすばらしく、私にとってこれ以上の書き手はやはりこれからも現れないのではないかと思えた。

私がトルストイの文章で好きなところは、読んでいて人物の思考がぴったりとなぞれるように、あるいは自分がその人物として動いているように感じられるところだ。その人物が起こすアクションの過程と性格が一致しているところ。こうやって書いているうちにも、その感動を思い返すだけで私の胸はいっぱいになる。

 

そして全体として非常に豊かな、雄大な印象を受けるところが素晴らしいと思う。特に私はトルストイの描く舞踏会のシーンがとても好きで、(『戦争と平和』の舞踏会のシーンも素晴らしいが)この『アンナ・カレーニナ』でも、アンナがヴロンスキーと踊るシーンはまるでこの世のものとは思えないような美しさである。

その他にも印象的なシーンはたくさんあるが、私はリョーヴィンが自分の恋を諦めかけているときに、偶然夜道でキチイを見つけ、何か大いなる啓示のようなものに打たれる場面も素晴らしいと思う。リョーヴィンは話の時々で何度か宇宙的な感覚(とでも言えばいいのだろうか)に襲われるが、このシーンはその感覚と孤独感と、そしてキチイという運命の恋人との再会が混然一体となってとても美しい。

 

この物語はしばしば「完璧な小説」と言われてきたらしいが(新潮文庫解説より)、私はそうは思わない。登場人物の行動にどうしても納得できないところがあるし、ストーリーも散漫な部分があると思う。

けれども、再読してみて、やはりトルストイ以上の人物描写をする作家はいないと私には思えた。トルストイの文章は、私の永遠のあこがれである。

 

 アンナについて

アンナの造形については、彼女は同情すべき女性だという作者の思いが強すぎるように思えた。トルストイはアンナを迷える子羊であると定義して、読者にもそれを押し付けようとしているきらいがある。人々は彼女を寛大な心で赦すべきであり、愛するべきであると。私もなるべくそんな作者の意思に沿いたいと思うのだけど、どうしてもアンナに同情の余地があるとは思えなかった。

 

アンナは輝くばかりに美しく、誠実で、しかも賢い女性だとされているが、実際に彼女の取る行動は支離滅裂である。読者の多くは、むしろ彼女よりも彼女の夫のカレーニンに同情すると思う。

もし、カレーニンがアンナを冷たく突き放し、あるいは罪人に鞭打つようなひどい仕打ちをしたなら、私はもっとアンナに同情しただろう。しかし、そうする要素がとてもあるにも関わらず、実際にはカレーニンはアンナを赦そうとするのだ。

この部分は、読者の多くを戸惑わせるのではないかと思う。

 

アンナの言動は全く現実的なものではなく、言い訳ばかりである。しかし私はこのような言動がとても自分に覚えがあるので、これは彼女が狂気に陥っているのだなと思って読んだ。

不思議なのは、そんな狂ったアンナを人々が見捨てないことで、これは彼女が狂気に陥る前の人徳によるものなのだろうか、といろいろ考えた。人間、よくしてもらった人はなかなか見限れないものだからだ。

これはドリイの行動にもっともよく表れていて、ドリイは社交界でどれだけアンナがひどく言われていようとも、自分はアンナを見捨てまいとしていることからもよくわかる(しかし、実際にアンナに会うと、ドリイもアンナの不自然さを無視できないのだが)。

 

ただ、留意したいのは、アンナはカレーニンと20も年が離れているということだ。しかも、カレーニンがアンナに恋をしたわけではなく、アンナの叔母に仕向けられて、どうしても結婚せざるを得ないような状況になって結婚したのだという。

ヴロンスキーに出会う前のアンナは、おそらくそんな状況も仕方ないと思っていたのだろう。彼女は好きでもないし自分を愛してもくれない男の、しかし良き妻であったのだろう。この部分はかなり重要だと思うのだが、物語の中ではさらっと触れられている程度である。

もし、この部分がもっときちんと書かれていたならば、もっとアンナに対する見方も変わったかもしれない。アンナはとても孤独だったのだろう。

 

リョーヴィンについて

この作品において、リョーヴィンはしばしば「完璧に理解する」ということをする。あるいは、彼の思考が「完璧に理解される」ということが起こる(と書いてある)。しかし、そんなことは実際にはないと私は思う。

 (アンナもそうだと思うのだが)リョーヴィンはひどく甘ったれた人間で、その言動には何度も驚かされる。彼が非常にお金持ちのお坊ちゃんで、あまり苦労を知らないのだろうということは想像できるが、それにしても彼の純粋さは時々読者をうんざりさせるのではないかと思う。

 

それでも私は『アンナ・カレーニナ』の登場人物たちの中で、一番リョーヴィンが好きだ。彼が自分のせいで周囲を幻滅させることを恐れていることや、政治的なことがまったくわからず暴論を言ったりまごまごしたりするところにも共感を覚えるし、いつも理想を高く持ちすぎて達成できないところはとてもリアルである。

そんな短所にも関わらず私が彼を好きなのは、彼が弱者を他人と思わず一体になろうとするからである。今ではならず者となって病に侵されている兄も、口ごたえしてばかりだが頑丈で自分のやるべきことがわかっている農民たちとも、彼は理解し「完全に」一体になろうとする。

だが、上記でも述べたようにそんな「完璧」や「完全」は存在しない。さらに、人間は他者と一体になることなんてできない。ので、リョーヴィンはいつも挫折している。そういう挫折が私は好きなのだ。

 

しかしこれはトルストイが書いた物語なので、リョーヴィンはキチイと結婚することによって、最後の最後でその「完全」に近いものを手に入れる(ように書かれる)。これはトルストイが、結婚についていかにまだ理想を捨てていないか……ということの現れなのではないかと思う。

最終的にはトルストイは妻と喧嘩し家出をした上で、世界に知られた文豪とは思えないようなひっそりとした死に方をする。この最期を考えると、トルストイはついに結婚についての理想を捨てきれなかったのではないかと思う。

たぶん、本当に素晴らしい、美しい瞬間が、奥さんとあったのだろう。トルストイの妻は悪妻と言われているが、(トルストイの性格を考えるにつけても)私はあまりそうは思っていない。

 

その他

トルストイの作品では、基本的に、個人の力が重要視されていないように思う。

戦争と平和』にはかの有名なナポレオンが出てくるが、そこでのナポレオンは全く平凡でなんのカリスマ性もない人物として造形されている。これはトルストイがロシア人であることを差し引いても、珍しい見方なのではないかと思う。

ナポレオンはただ「歴史がそうさせた」だけの英雄で、本人には何の特別なところもなかったという『戦争と平和』での書かれ方は、『アンナ・カレーニナ』でも共通するものがあると感じる。『アンナ・カレーニナ』でも多くの魅力的な人物が描かれるが、その誰一人として、自分の力で何かを達成できない。

人々はただただ生きることに翻弄され、誰一人自分の人生に確信できない。これはトルストイの作品に通底するテーマのようだ。

 

 ***

 

今回この雑感を書くにあたって、前回読んだ時の自分の感想を読み返した。すると、今と見る部分が全く違うことにとても驚いた。

たとえば、前回読んだ時は、リョーヴィンのプロポーズをとても微笑ましい可愛らしいものだと思ったのだが、今はそう思えなかった。また、前回はアンナの最期に呆然となり、かなりのショックを受けたのに、今回はそれを当然の成り行きだと思った。

自分ひとりでさえ、こんなに読み方が違うので、読書会で他の人の感想を聞くのが楽しみだ。