毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

自己中心的な人間は、誰かを助けてはいけないのか ーー映画『THE GUILTY』とジッド『田園交響楽』に見る自己欺瞞との戦い

2/22公開 『THE GUILTY/ギルティ』ショート予告 - YouTube

※この記事内では、 『THE GUILTY』のネタバレはしていませんので、安心してお読みください。ただ、できる限り事前知識がない状態で観てほしい作品ではあります。

 

友人のSさんが映画の『THE GUILTY』を観た、というので、2人で感想をあれこれ語り合った。そして話しているうちに、やはり私はこの映画がとても好きなのだな、と思った。

 

『THE GUILTY』は、警察の電話オペレーターが、かかってきた電話に対応する形で進むワンシチュエーション・ミステリーである。設定はとてもシンプルで、主人公は耳からの情報だけで事件を解決しようとする。

彼一人の姿が映し出されるのが映画の9割、ひょっとすると、もっと多くの時間を占めているかもしれない。主人公の焦り、苛立ち、そして悪戦苦闘の末の解放を、リアルタイムで視聴者も体感できる。私はとても好きな作品だった。

 

しかし、同時に、この作品を苦手な人もいるだろう、ということを強く感じた。

設定やストーリーから、そう言っているのではない。主人公のキャラクター造形に、イライラする人がいるだろう、と思ったのだ。

一言で言うと、人を助けようとするには、彼はあまりに自己中心的なのである。それこそ、「なんでわざわざ」と思うほどに、彼は一人で物事を解決しようとする。周囲が見えていない。他人に頼れない。能力はあるのに、現実に対して盲目的なのである。

 彼がやろうとしていることは人助けなのだが、彼自身の方にも問題があるのだ。

 

 

ここから私は、次のようなことを考えた。

もし、誰かを助けようとしても、その方法が間違っているならば、それは結果的に間違いになるのだろうか? 

被災地に千羽鶴を送るような、見当違いの迷惑になりかねないのだろうか?

 

 

ここで思い出したのが、ジッドの『田園交響楽』(神西清・訳)という本である。

これも自己中心的な人物が、他者をあわれみ助けようとして……というところから始まる話なのだが、この人物の盲目っぷりは『THE GUILTY』の主人公よりさらに始末が悪い。

 

田園交響楽』の主人公は、家庭を持つ牧師である。彼がとあることから、盲目の少女を家に引き取り育てていく、というストーリー。

最初は言葉さえ知らなかった少女は、教育の甲斐もあって、どんどん素晴らしい知性を身に着けていく。そしていつの間にか、牧師と少女は惹かれ合うようになるのだが……。

 

この本のすごいところは、牧師の一人称で、当の本人の自己欺瞞を描いている、ということだ。

彼は常に善行をしようと、弱きものを助けようと、そして慈愛をもって他者に接しようと、手記の中でそう書いている。しかし、事実は全くそうではない、むしろその反対であることが読者にはわかる。

教えを施そうとして実は他者の意見に耳を貸さないこと、人を許そうとして他者を縛っていること、そして人を分け隔てなく愛そうとして、まったくそうできていないこと。彼のすべてが、本人はそうと知らず、嘘で塗り固められていることが、読者にはわかるのだ。

 

その結果、善行として始めたはずの行いは、悲劇的な結末へと向かう。周囲の人すべてが、彼の自己欺瞞の被害者だとも言える作品である。

 

 

しかし、私はここで考えてしまうのだ。

最初からすべてが無駄だったのだろうか、と。確かに、牧師は自らの自己欺瞞に最後まで向き合わなかった。

けれど、この話の牧師は、最初は全くの慈悲から盲目の少女を引き取ったはずなのだ。その時の彼女は美しくもなければ知性も感じられず、しかも不潔で牧師の行為に対して人間らしい反応さえしなかった。彼が引き取らなければ、もしかしたら彼女は一生をそのまま過ごしたかもしれない。

それでも、<彼のような人間が>自分と縁もゆかりもない誰かを助けようなどとは、最初からするべきではなかったのだろうか?

 

 

答えはNOであると、私は思う。

被災地に千羽鶴を送る行為を例にしてみたい。被災者のために何かをしたい、という気持ちは否定される べきものではない。問題は、その行為が現実と噛み合っていないことなのだ。

しかし、そこを<間違って>千羽鶴を送ってしまったとする。そして被災地から「千羽鶴を送られても現地で生かせない、もっと実用的なものを送ってもらいたい」という返答が来たとする。

もしここで、ムッとして「しかし、それを送ったのは私の善意である」と言ったら、それはその人が現実と向き合えていない証拠だ。

しかしここで、「そうか、千羽鶴は役に立たなかったのだな」と思ったのならば……これは事実を受け止めていることになる。さらに「では、今度は現地の人に役に立つものを送ろう」と思えたならば、それは立派に現実と向き合っていると言えるだろう。

 

 

このことから、『田園交響楽』の主人公は、自らの自己欺瞞に敗れたのだと言える。

彼は現実よりも自分の願望を優先し、しかもそれを潔白なものにしようとした。本当に誰かを助けたかったならば――彼は自分の願望を優先するべきではなかったのだ。

その点、『THE GUILTY』はどうだろう。彼は誘拐事件の被害者を救おうと奮闘する。しかし、上手くいかない。彼は現実に対応するため、自身の自己欺瞞に向き合わざるを得ない。

 

葛藤、苦しみ、苛立ち、焦燥――それが私を熱くさせる。誰かを助けたいならば、現実と向き合い、自己欺瞞と戦わなければならない。

私は、『THE GUILTY』にはそのドラマがあると感じた。もしまだ観ていないという方へ、この映画おすすめします。とても面白かったです。