毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

文学、文学者を語る時、その社会面を考慮するべきか ーードナルド・キーン作品を読んで最近考えたこと

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12月だったのに、美しい紅葉が見られた銀閣寺。



私は日本文学者ドナルド・キーンさんのファンで、その作品の愛読者である。つい2ヶ月前(2019年2月24日)にお亡くなりになり、最近はその作品を読み返したり、まだ読んでいない作品を読んだりしている。

 

キーンさんは日本文学研究者の第一人者と言える方である(「海外で」ではなく、「世界で」と言っていい研究者だと思う)。研究対象は古典から近現代まで幅広く、日本文学の英訳も数多く手がけられている。

また、東日本大震災を機に日本国籍を取得し、日本人となったことでも広く名前を知られることとなった人だ。

 

しかし、それらの素晴らしい作品を読んでいて、こうも思ってしまったのだ。

キーンさんの業績や人柄を素晴らしいと言うことで、私もまたある種の偏見を持たれてしまわないか? と。つまり、キーンさんを素晴らしいと言うことで「日本文化、日本文学、ひいては日本人は素晴らしい」と賛美しているように取られたくないな、と私は思ったのだ。

 

 

文学作品、そして文学者も、そう意識するしないに関わらず、社会により属性を付与され、記号的に呼ばれたり扱われたりしてしまうことは、ままある。

ドナルド・キーンさんの例で言えば、1965年のフォルメントール賞(当時、影響力ではノーベル賞に次ぐと言われていた文学賞)選考会の時である。ベトナム戦争まっただ中でアメリカへの反対ムードが漂っていた当時、彼は「アメリカ人だから」という理由で演説をする前に何人かに席を立たれてしまう。この時、キーンさんは咄嗟にスピーチをフランス語に切り替えて難を乗り切った。それで、話を聞いてもらえたというのだ。(『ドナルド・キーン自伝』ドナルド・キーン 角地幸男・訳 より)

その人たちにとって、この時「アメリカ」という記号に背を向ける、という行為こそが大事だったということがわかる。彼らが示そうとしたのは、キーンさんという個人への姿勢でもなければ、そのスピーチしようとした内容への姿勢でもないのだ。

ただ、その属性への反対ポーズである。

 

 

そして、4月1日に新元号「令和」が発表されたことにも、私の考えは向かった。

「令和」の典拠は万葉集だという。私は短歌が好きなので、本来なら喜んでいただろうと思う。

しかし、現在のムードを考えると、私は素直に喜ぶことができなかった。現政権から、その漢字の意味を深読みしてしまったせいも、もちろんある。けれど、より正確に言えば、私は『喜ぶべきではないような気がして』しまったのだ。

 私もまた、「令和という新元号に賛同する」ことそのものについて、その政治的なポーズについて考えてしまったのだろう。

 

 

しかし本音を言えば、私は政治的な意思と言えるだけのものが、そもそも自分にあるかわからない。

元号の発表の直前、お友達さんからLINEのグループにて、新元号のアルファベットの頭文字は何になるか、というアンケートがあった。そこで私は深く考えず、「安久という元号を職場で聞いた、いい漢字だと思う」というわけで「A」と答えたのである。

すると、そのグループ内で「それは首相の頭文字と同じだよ」という指摘をもらい、そこで初めて私はそのことに気づいたのだった。人からそう言われるまで、全く気付かなかった。自分の政治への無関心さに愕然とした出来事だった。

 

結局のところ、私もキーンさんのスピーチに背を向けようとした人たちと同じなのだと思う。「ポーズ」を気にしているのだ。

本当に恐れているのは、自分が政治にあまり関心がないということが露見されることなのではないだろうか。自分の主張や考えよりも、どうふるまうべきか、そこからどう見られるか、を気にしているのだ。

 

 

私に政治的主張が希薄なことはわかった。だが、ここで仮に、私にしっかりした考えがあったらとしたら、どうだろう。

もし、私にちゃんとした主義主張があったとしたら、そのために好きな作品もその影響を考えて「好き」だとは言わない、という選択肢は正しいだろうか?

 

 

それは違うと思った。好きなものは好きだ。それとこれとは、別でいいと思う。

もちろん、例外もあるだろう。だが問題は、そこの違いを自分の中で明確にしておくことなのではないかと思う。また、ここは賛成だけどここは反対、と言えるムードを社会が形成することだ。

一つを見て決めつけてしまわず、その人その人の主張をきちんと理解し受け入れようという雰囲気が作られていることが大切なのだと思う。

私の例で言えば、私はドナルド・キーンさんのファンだが、それを公言することに手放しに日本人を称賛する意図はない、というように。大切なのは物事を表面的・記号的に捉えないことだと思う。

 

 

ある作家のファンになるということは、その作家が自分の一部になるということでもあると思う。

私は去年の12月、京都旅行へ行った(中学の修学旅行でも行ったことがあったが、ほとんど清水寺壬生寺へ行ったことしか覚えていない)。

行きたいところが山ほどある中、私は2日目の朝イチに行く場所へ、銀閣寺を選んだ。確かにそこには、教科書に必ず載っている銀閣寺の姿があった。

しかし、ドナルド・キーンさんの『足利義政銀閣寺』を読んでいた私には、それは「ドナルド・キーンが〈日本のこころ〉と思った銀閣寺」でもあった。

 

銀閣寺を作った足利義政は、時の最高権力者でありながら、政治的には全く無能の人であったと言われている。

応仁の乱で京都が焼け野原になった中、義政はここで後に日本的な美意識の基礎となる、粋を極めた東山文化を花開かせる。

 

確かに、義政は政治的には無能な将軍だったのかもしれない。しかし、それで銀閣寺の美しさを否定しようとは、全く思わない。

私は京都で銀閣寺を見た時、心からこう思ったのを覚えている。

「京都に来て、本当によかった」