毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

一般化する前に自己と他者の違いを認識しないといけないこと

f:id:hikidashi4:20191016125237j:imageここ最近、足しげく読書会に行っている。月一回、自分も主催者の一人である(主催者が2人いる)読書会は、2年以上続いている。

課題本があるタイプの読書会では、いろいろな発見がありとても楽しい。私は特に、人によって一つの作品でも読者としていろんな立場があるということが可視化されて楽しい。

登場人物の中でも、誰に共感し誰をわからないかというか。読者個人の属性(年齢、性別、職業、家庭など)によって、どのような傾向があるらしいか。そのようなことが、一つの本の感想を言い合うことで表面化される。

 

当たり前のことだが、同じ作品を読んでも、自分が持つ感想と、他者の感想は違うのだということに気が付く。

たとえば、先日は川端康成の『山の音』が課題本だった。私は非常に主人公に共感し、ラストの主人公の言葉に感動したので、それまで川端康成を苦手だと思っていたイメージが一変した。

しかし、読書会で他の人の感想を聞くと、むしろこの主人公に対して不満を持っているらしい人が多いことに驚いた。

この主人公は、60歳を超えた男性である。ほかの人の意見を聞いたあとだと、あらゆる立場が違うはずの主人公に、なぜ自分は共感したのかという疑問が浮き彫りになった。

それまで疑問とも思わなかったことも、他者と相対化することによって、はじめて自覚することができる。

 

  ***

 

話は変わるが、私はペーパードライバーである。

運転免許を取るのは大変だった。私はあまりにも運転が下手だったので、教習中に何度も泣いてしまった。また、教習が終わると疲労困憊して歩けなくなり、半時間ほどもじっと教習所の椅子に座っていた。

明らかにおかしいとは思っていたが、運転免許は必要だと思っていたので耐えた。しかし何より、十万以上の大金を払っていたので、それをパァにするわけにはいかないという思いが強かった。

 

それでも期限内に免許を取ることができず、どんどん追加料金を払わなければいけなかった。

ちゃんとやっていれば車の免許くらい取れるはず、という一般論は全く慰めにならなかった。何のためにこんなにつらい思いをしているのか、全くわからなかった。

 

自己の能力が他者と異なるのならば、自分の頭でその対策を考えなければならないということが、当時の私にはわからなかったのだ。

とにかく 大きな犠牲(お金)を払ったことが恐ろしく、どうにかしてその元を取らなければということしか考えられなかった。

それでも、なんとか免許を取ることはできた。解放感すらなかった。喪失感しかなかった。

 

 ***

 

今でも、どうして自分はこんなに何もできないのだろう? と考えることは多い。

人と同じようにやろうとしても、自分にはそれだけの能力が足りないのだということは、わかってきた。しかし、それだけでは解決にはまだ遠いのである。

 

思うのは、私の場合、自己を一般化しては駄目だということだ。

人と同じようにやっていればそのうち慣れるだろう、誰でもすぐにはできないのだし……という風にしていると、二進も三進もいかなくなる。

それよりも、自分と人との違いに敏感にならなければならない。そして、周りにもある程度、そのことを理解してもらう努力が必要らしい。

(とはいえ、どうして私だけそんな面倒くさいことをしなければならないのだろう? という気持ちは今でもぬぐえない)

 

 ***

 

しかし、読書会ではそれを自然に、負担なくやれるので、楽しい。

そこでは「あまり人と被らないように」「自分が感じたことを」言わなくてはいけない。

できるできないは問題ではなく、しかも他人がどう感じているかを聞くことで、自分と相対化できる。

社会人になって、一つの対象について複数人とじっくり語り合うということが、そもそもあまりないように思う。気が付くことは多い。

  

できることなら、日常生活の中でも、なるべく人との差異にプレッシャーを感じないようになりたい。しかし、それは私にはまだまだ、難しいだろう。