毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

富士山を探す旅 ――2泊3日静岡旅行

私は旅先でした会話とか、あるいは何気なく聞いた現地の人の会話だとかに非常にロマンを感じる人間なので、今回もそれら見聞きしたことを記録しておこうと思う。

とはいえ、静岡は都会で交通の便も良いところだったので、特におもしろいアクシデントは起こらなかった。自分のための備忘録のようなものである。

 

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f:id:hikidashi4:20191120195940j:image私は九州生まれ九州育ちの人間で、今まで富士山を見たことがなかった。

そのため、静岡駅に着けば、すぐに富士山が目に入ると思っていた。しかし駅であたりをきょろきょろしても、それらしき山が見つからない。いつか自然に見ることができるだろうと思っていたが、その後も私は静岡市で富士山を見ることはなかった(!)。

 

富士をきちんと見たのは、静岡市から沼津市へ行く途中の、電車の中であった。電車の車窓から、いつ富士が見えるか見えるかと待ち構えていて、富士市にさしかかったあたりで、ようやく初めて見ることができた。

鈍行列車だったので、乗り合わせていた人々はほぼ、地元の人たちだったのだろう。富士山を見るために車窓にへばりついていたのは、私だけだった。

 

富士市を走る電車から見る富士山はとても大きく、頂上に少しだけ雪をかぶっていた。見ていて思ったのは、北斎の絵の通りだ、ということだ。とても大きく、まわりに並ぶなにものもない。その姿はまさに「ご神体」 という感じだった。

 

この時にもちろん写真を撮ったが、あとで見てみるとまったく上手く撮れていない。しかし、私は気にしなかった。あれだけ大きい富士なのだから、沼津でも綺麗に見えるだろうと考えていたのだ。

ところが、いざ沼津に着いてみると、空は晴れているのにちょうど富士山に雲がかかっており、まったくその姿が見えない。見えるのはその広大な裾野のみだ。

太宰治が「富嶽百景」で「裾のひろがつてゐる割に、低い。あれくらゐの裾を持つてゐる山ならば、少くとも、もう一・五倍、高くなければいけない。」と書いていたのが思い出され、私はまた、あの通りだ、と思った。

 

しかし、富士市で見た富士は本当に美しかった。そして、透き通るように青かった。

私の記憶の中に残っているのは、あの青く美しい富士山である。

 

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f:id:hikidashi4:20191120200717j:image芹沢銈介美術館は登呂遺跡に隣接しており(というか、むしろ遺跡の敷地内にあり)、周辺はたいへんのどかな雰囲気だった。

なにしろ、弥生時代の集落が住宅街と「お隣さん」ともいうべき気安さでそこにあるのだ。時間を忘れるような風景である。

 

そんな遺跡と細い車道を一本はさんだところに、いかにも古民家風のお餅屋さんがあったので、入ってみた。なんと、表には本物の水車が回っている。

中に入ってみると、これは本物の古民家だとまたびっくりした。入ってすぐは店舗になっていて、奥にお座敷があり、大きな囲炉裏が切ってあるのが見える。

 

店員さんに、4時に店が閉まりますがよろしいですか? と言われた。時計を見ると、あと40分ほどで午後4時である。私は、大丈夫です、と答えて座敷に案内してもらった。椅子の席もあったのだが、こういうところに来たからには、お座敷で食べるのがよいだろうと思ったのだ。

お客さんは椅子席に一人いるだけで、私一人でお座敷を独り占めである。

 

腰を下ろすとすぐに店員さんが緑茶を持ってきてくれたのだが、阿部川餅を頼むと、これまた急須に入れた緑茶がついてきた。私はお茶が大好きなので、大変うれしかった。

お餅を食べ終わる頃に、また店員さんがやってきた。他にお客さんがいないせいだろう、また湯飲みにお茶を注ごうとするので、私はあわてて「まだお茶残ってるので大丈夫です」と言った(が、注がれてしまった)。

 

とても素敵な建物ですね、歴史のあるお店なんですか? と尋ねると、この民家は築200年のものを福島から移築したのだという。

二階もありますので、ぜひ見てみてください、とすすめられる。お言葉に甘えて、私は二階へも上がってみた。

誰もいないお座敷で、しばらくぼーっとした。樹齢何年なのかと思うほどの、木の幹を輪切りにした大きなテーブルがある。窓からは、表で回っている水車が見下ろせた。昔のものはスケールが大きい。

サインが飾ってあったので近づいて見てみると、森繁久彌のものだった。

 

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今回の静岡旅行では、文学館に4館、美術館に1館行った。

その中でよく話をしたのは、井上靖文学館と中勘助文学記念館の学芸員さんである。

 

f:id:hikidashi4:20191120200020j:image井上靖文学館の学芸員さんは、私と同じ年くらいの女性だった。

眼鏡をかけた清潔感のある女性で、入館料を支払うと「そこの栞から、好きなものをおひとつ取っていかれてください」と言われる。見てみると、表に50音の文字が書かれたカラフルな栞が並んでいた。私は「り」の栞を取った。裏返すと、井上靖の言葉の引用が印刷されている。

 

旅情は、その時は砂漠の国の乾いた空気の中に香水のように拡散し、昇華し、今頃になって、私の心の上に霧のように降って来つつあるのであろう。  ――『わが一期一会』

 

この11月2日~4日の間には、「しろばんば祭り」として来館者はガラガラを回せるイベントが開催されていた。私も回してみると、『しろばんば』に「おめざの黒玉」として登場する黒飴がもらえた。

また、展示のレイアウトに手作り感があふれていた。展示物の壁紙は水をイメージしたと思われる水彩画で、手描きで描かれたものなのだろうと思われた。

 

そのほかにも、館内を見学しているうちに、自然と「ああ、この文学館は今、あの女性の手で成り立っているのだな」と私は思った。50音の栞(もちろん裏には50枚すべてに井上靖作品の引用があるのだろう)、展示物のレイアウト、イベントの発案……。

そこには、井上靖作品で文学館を盛り上げようとする努力が随所に見られた。明るく親しみやすいセンスが光っている。

実際のところは、どうなのかわからない。もしかしたら、今日はお休みしているほかの学芸員さんがいるのかもしれない。しかし、イベントや展示のセンスからして、それらはその日文学館で見たその女性以外の人(50代くらいの男性が2人いた)の発案ではないように思えたのだ。

 

ちょうど15時になる時、その学芸員さんに、館内ツアーをしますのでよかったらお聞きになりませんか、と誘われた。私は「聞きます」と言ってついて行った。

ツアーは他に親子らしき女性2人組(60代と40代くらいの女性)が参加して、話を聞いた。井上靖来館のエピソードなどを交えた、親しみやすく面白いツアーだった。

 

「私は静岡に来てもう4年になりますけど、いまだに富士山に慣れてないんです。きれいに富士山が見えると、いまだにハッとして、見とれてしまいます。富士山に慣れたら本当の静岡県民だと言われているそうですが、私はまだまだですね」

学芸員さんはそう言って笑っていた。私は、この土地の人ではないのだな、と思ってびっくりした。

 

どうしても気になって、帰りに館内販売の本を買うついでに、「井上靖の研究をされていたのですか?」と聞いてみた。

すると、本来は美術畑の人らしいということがわかった。もともと文学畑ではない方が、こんなに文学館を盛り上げようとしてくれていることを知れて、ありがたさでいっぱいである。

いろいろな人生があって、それにみな向き合っているのだな、と思う。

 

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f:id:hikidashi4:20191120200041j:image中勘助文学記念館は、人気のない静かな山間にあった。背後は完全に山である。

しかし、中に入ってみると意外にも来館者が数人いる。その人たちに向かって、学芸員の方が解説をしているところだった。

私が入っていくと、その学芸員さんが出てきて「解説中なのですが、聞かれますか」と言われた。60代くらいの穏やかそうな男性で、いかにも文学が好きそうな人に見えた。私は「聞きたいです」と答える。

 話を聞いている最中も電話がかかってきて、その男性はすまなそうに詫びながら部屋を出て行った。あとでその人から聞いたところ、この文学館はその人が一人で管理されているのだという。

 

中勘助の生涯の説明を受けたあとにも、また続々と来館者がやってきていた。ちょうど静岡で「めぐるりアート静岡」というイベントがあっていて、地元の写真家の作品が展示されており、その影響もあったのだろう。

その人たちが学芸員さんの説明を受けた後、「とてもきれいなお家」と口々に記念館の建物をほめているのが聞こえた。中勘助も住んでいた一般的な民家がそのまま使われている記念館なのだが、家の中も非常に明るく古びた感じがせず、とてもきれいなのである。

見れば、さきほど私と一緒に解説を聞いていたご夫妻が、縁側でひなたぼっこをしていた。

 

私は中勘助の静岡滞在中のことを書いた資料がなかなか見つけられなかったので(滞在中に執筆した小説は読んでいたが)、この記念館でそれらの文章を見つけられないかと本棚を見ていた。

すると、ちょうど学芸員さんの手が空いたらしく、私に話しかけてきてくれた。

中勘助の静岡滞在中のお話などを聞いたあと、おもむろに学芸員さんは本棚の隣の棚の扉を開けた。何が入っているのだろう?

「これは中勘助が持っていたレコードなんです。これはSPレコードで、僕なんかが聞いていたのはLPレコードなんですけど……カセットテープはわかりますか?」

「わかります。聞いていました」

「LPレコードがカセットテープの前ですね。LPのさらに前がSP」

なるほど、これはレコード盤をしまっておく棚だったのだ。板と板の間が非常に狭いので、言われないと私は何をしまっている棚かわからなかっただろう。

それにしても、中勘助の私物がこんなに無造作に置いてあるとはちょっと驚きだった。私はまったく音楽に詳しくないので、勘助の趣味がどういうものかを味わうことができなかったのは残念である。

 

その後も、バスの時間まで館内をぶらぶらしていた。来館者の人が、展示してある写真について、「あそこに写っているの、あれ、私なんです」と学芸員さんに話しているのが聞こえた。

「えっ。へぇぇ。作者さんとお知り合いですか」

「いいえ、違うんです。友達がね、ここの展示がテレビに出ているのを見て、その中の写真に私が写っているのを偶然見つけたんです。それで、あなたが写ってるわよ! って連絡してくれたの」

人が、文学館を訪れる理由はさまざまである。

 

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f:id:hikidashi4:20191120200100j:image焼津駅から、小泉八雲記念館を訪れるためにバスに乗り発車を待っていると、運転手さんに男性が話しかけてきた。

見た目は30歳くらいの人に見えるのだが、話し方がひどく子供っぽく、たびたび運転手さんに「おじさん、お菓子ちょうだい」と言っている。どうやら知的な障害のある方のようだ。

それに対して運転手さんはうんうんと話を聞き、この前の休日はどこに行ったの? と尋ねた。男性はどうやら、どこかの海へ釣りに行ったらしい。この頃寒くなってきているから、ちゃんと上着を着ていくんだぞ。うん、わかった。それで、釣れたの? うん、あのね、……。

私はその会話を、とても心地よく聞いていた。やがて発車時刻になると、男性はまた「おじさん、またお菓子ちょうだいね」と言いながら別れていった。

 

さて、小泉八雲記念館に着くと、時刻がまだ開館前なので開いていない。

記念館の周りには、文化会館や民俗資料館などといった公共施設も建っている。すぐ隣は図書館だった。

私は懲りずに「ここから富士山が見えないかしら?」と思い、高台へ登ってみたが、やはり見えなかった。無念。

階段を下りて記念館の前に戻ってくると、図書館の前で開館待ちをしているおじさんに「まだ(開くまで)もう少しかかるね」と話しかけられた。

そうですね、と返すと「昨日、花火があっただろう?」とおじさんは話を続ける。

「え、そうなんですか?」

「そうだよ、見なかった?」

話してみてわかったのだが、このおじさんは口調が不明瞭で、とてもどもる人だった。服装もよれよれである。図書館の開館待ちをしている他の人たちも、私たちのことを知らんふりしていた。正直、ちょっと怖いな、と私は思った。

しかし、そう思った瞬間に、先ほどのバスの運転手さんと男性の心地よい会話が思い出された。

ここで私がこのおじさんと話したからと言って、なにか不都合はあるだろうか? 特に何もないように思える。

「実は、私は福岡から来たんです」

私は話を続けることにした。

「えっ。お。福岡」

すると、おじさんは想像以上にびっくりした様子で、しばらく口をもごもごさせた。そして、花火大会が台風19号の影響でずっと延期されていたこと、それが昨日ようやくあったことを教えてくれた。

おじさんはさらに何かを考える様子で、「福岡と言やぁ、まつ……せい……」と聞き取りにくい口調で何か言った。

松本清張?」と私は聞き返す。

すると、おじさんは今度ははっきりした口調で「いや、松田聖子」と言った。

おじさんにとって、福岡は「松田聖子の出身地」なのだなぁ、と思うとおかしかった。きっと、今でも松田聖子はおじさんにとってのアイドルなのだろう。

やがて、開館時間になって私はおじさんと別れた。もし、あのバスの運転手さんたちの会話を聞いていなかったら、このおじさんともこのような会話をしていたか、わからない。

何事もめぐり合わせである。

 

 

 

おしまい。