毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

時間の感覚と得られる感情

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カステラと猫ラーメンがおいしそう。


最近、フィクションを薦める時に「さらっと読めます!」「頭空っぽにして楽しめます」「1時間もあれば読み終わります」という言い方を多く目にするようになった気がする。逆に、「重厚な物語です」「読みごたえがあります」「壮大なロマンです」などといったお薦めのされ方は、ほとんど見ないように思う。

私はつい「最近」と言ってしまったが、実際はずっと感じてきたことかもしれない。しかし、ツイッターなどのSNSを見ている時間が多くなったために、「最近」のことのように感じるのだろう。

 

時間がタスク化・細分化されている現在、フィクションの需要も変わってきているのだろうということはよくわかる。

じっくりと腰を据えて読書を楽しむということは、現代ではほとんど「贅沢」と言ってよい。かかるコストで言えばそれらは「安い」はずなのだが、それだけの「時間」を捻出するためにかける労力を思うと、むしろ「高く」感じられるのだろう。

それくらいなら、感激にむせぶ「かもしれない」壮大な物語に取り組むよりも、ささやかではあるが「おそらくそこそこ満足するだろう」という物語に、時間を投資したほうがリスクが少ない。

かく言う私がそうだ。ここ数年、本当に本を読まなくなった。その割に、読んでも大満足はしないだろうという本の方を手軽に買ってしまう。そして、「これは絶対自分は好きだ」と思う本の方を、何年も何年も読まないままでいる。なぜならそれらの本は、質量ともに重いことが多いからだ。

自分が好きなものを、他ならぬ自分が遠ざけているなんて。なんと悲しいことだろう。

 

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Amazonプライムで『四畳半神話大系』が見放題だったので、先週全11話を視聴した(この記事の冒頭に張っているのは、このアニメのワンシーンである)。とてもハイセンスな作画で、ストーリーもよくできており、何より世界観が素晴らしかった。

もともと私は、この物語の原作者である森見登美彦さんの作品が好きなので、その世界観が見事に表現されていることに、とても満足した。

このアニメは、京大に入ったものの2年間の学生生活を無為に終わらせてしまった主人公「私」が、あの時違う道を選んでいれば! と何度もその2年間を繰り返すというストーリーである。

そのため、全11話中、9話までおおまかなストーリーが同じだ。しかし、「私」の選択によって、少しずつ細部が異なる。それらの情報が蓄積され、終盤に向かってどんどん生きてくるのである。

 

このような設定なので、アニメでは同じようなシーンが何度も何度も出てくる。中には、ほとんど同じシーンが使いまわされているなとわかるところもある。しかし、不思議なことに、それを見ても手抜きだと感じることはないし、飽きることもない。

むしろ、それは視聴者に経験則を与える。物語から視聴者へ、ある種のパターンが示されること。さらに、元となるストーリーと異なる展開を、視聴者は新しい情報として上乗せできること。視聴者にとってこの上乗せは負担ではなく、「積み上げる」というある種の快感なのだ。

 

経験則と時間、ということを私は考えた。これは、現代の時間感覚とも、とても相性が良いだろう。

私たちはこの世界のルールを知りたい、その上で自分のレベルを上げたい、そしてそれらを駆使して目的を達成したい。この物語で主人公の「私」は失敗してばかりだが、視聴者はその経験が生かされることを半ば確信している。だから、飽きることなく物語を楽しめるのだと思う。

 

しかし、このアニメが放送されたのは2010年だし、この原作が書かれたのはなんと2005年である。「最近」ではない。

つまり、もともとこういう物語は多くの人が望んでいたし、今でもそれは変わっていないということなのだろう。

 

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時間の感覚、と聞いて、私が思い出す作品がある。『夕べの雲』(庄野潤三)である。

夕べの雲 (講談社文芸文庫)

夕べの雲 (講談社文芸文庫)

  • 作者:庄野 潤三
  • 発売日: 1988/04/04
  • メディア: 文庫
 

一気に時は55年さかのぼり、1965年刊行の小説だ。この作品は『四畳半神話大系』のように、タイムリープパラレルワールドを扱ったものではない。本当に、そのような要素はかけらもない。

ただ、一つの家族の移ろいゆく時間が、静かに、けれども確かに描かれている作品である。私はこの本を読んだ時、ふつふつと胸の奥からこみ上げるものに、何とも言えず嬉しい気持ちになった。

それは、作品が醸し出すユーモアによって生まれた気持ちと言ってもいいかもしれない。しかし、ユーモアと言うのは少し大袈裟ながする。それはもっとささやかで、自然なものに思われるのだ。

 

この本の中に、印象的なエピソードがある。

本の主な登場人物は両親と子供3人の5人家族であり、物語はこの一家の父親である「大浦」という人物を中心に語られる。

ある日、大人2人でやっと持ち上げられるというくらい大きな甕を、いろいろの末に大浦が買い受けることとなった。何の使いようもない、大きすぎて家の中に置けないような甕である。こんなにかさ張るものを引き受ける心理は、現代に生きる私たちからすれば、なかなか理解しがたい。しかし、この家族は大切にこれを保管しておくのだ。

そのうち、大浦たち家族は新しい家に引っ越す。その時になってようやくその甕の梱包を外し、大浦は家の外でその甕をごしごし洗う。そこに、特別な感慨は描写されない。しかし、そこにはなぜか大きな満足感があり、朗らかで豊かな気持ちが感じられる。

そして、本当にこれだけで1話分のエピソードなのである。

 

 

今の時代からすれば、この甕の話はある意味、時代で求められる許容の違いというものを語っているのかもしれない。

土地が余って困っているという地域なら事情は違うかもしれないが、家の中にすら置けないほど大きく、しかも非実用的なものを、都市で生活する我々は許容できない。
しかし、ネットも携帯電話もない時代に求められたのは、むしろそういう「無用なものを受け入れる力」だったのではないか、と私は思うのだ。

どれだけ事前に確認しても、どれだけきちんと確かめても、当時は人脈こそが頼りである。たくさんの人の手を煩わせて、やっと必要なものを手に入れたとしよう。しかし、いざ現物を目の前にしてガッカリ……聞いていた話と全然ちがう……ということも、当然あったことだろう。

そんな時に役立つのはむしろ、次からはもっとちゃんと確認しよう、という力よりも、まぁこういうこともあるさ、とやり過ごせるような力だという気がする。

 

つまり、『夕べの雲』の世界では、経験則が通用しないのだ。

この物語も、ほとんど登場人物が同じ話が、1話ずつ語られていくというスタイルである。しかし、それは『四畳半神話大系』の語られ方とは全然違う。

登場人物が同じであっても、彼らはその時その時ごとに、少しずつ変わっていく。だからこそ、前やったことが今度は勝手が違ったり、状況が変わっているのに、また同じことをしようとしたりするのである。

時間は蓄積されるが、蓄積された経験は、活かされるとは限らない。しかし、その一回性がとても貴重なのだ。それが『夕べの雲』で流れる時間感覚である。

 

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どちらの時間により魅力を感じるか、と問いかけたいところだが、おそらく『四畳半神話大系』の方が魅力的だ、と答える人の方が多いのではないかと思う。

私たちには大きな家もなければ、かさばるものをずっと持ち続けるだけの、精神的ゆとりもない。好き嫌いの問題ではなく、それはリアルな生活の問題なのだ。

 

現代の私たちは、一つ一つが異なる雑多な事象よりも、細部がちょっとずつ異なるバリエーションの生活に慣れている。絶対的な「個」を求めるよりも、細部を比較し妥当なものを選ぶ方が、効率のいい生き方なのだ。

時間によって、求められる感情も変わってくるのも、当然のことだと思う。私も、だんだんと自分がそうなってきているのを感じる。

 

もちろん、今でも思い切って大作に取り組めば、きっとそれに見合うだけの感情が得られる自信がある。私自身が、そういう感情を失ってはいない、ということにある種の自負を持っている。

しかし、そのように世間に逆行すること自体に、エネルギーが必要であることも、最近感じる。時間の流れに身を任せてもいいが、逆らいたいと思った時には、逆らえるだけの力を持っていたい。