毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

【島原半島1泊2日】前編 麗しきクラシックホテルの巻

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私の場合、旅には必ず目的があり、それは目的地にある。つまり、誰かと行くだとか、あるいは自分の中に目標があるだとかではない。もちろん例外はあるが、目的地がどこでもいい旅は基本的にしない。

今回は長崎の島原半島への旅だ。同じく北部九州といっても、福岡からはなかなか行くのに時間がかかる地域である。今回行くことができて、とても嬉しかった。

出発時は大雨だったので、最初は、この旅はどうなるのだろうと気が気ではなかった。しかし、蓋を開けてみれば、天候に恵まれた素晴らしい旅となったのだからわからないものだ。旅の思い出がすべて美しいわけではないが、素晴らしい旅は積極的に素晴らしいと言っていきたい。

そして、そういう体験が積み重なるのは嬉しいことだなぁと思う。

 

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島原半島の1日目は、雲仙に向かった。雲仙という名前は美しい。出雲や東雲などもそうだが、「雲」という字が入っている地名はそれだけでどこか幻想的である。

ただ、雲仙へ向かった時はかなり霧が出ていて、本当に雲の中へ入っていくようだったので驚いた。私が乗っていたのは、いわゆる観光バスではなく、ごく普通の路線バスである。それがぐいぐい霧深い山を登って行く。到着時刻間近になっても山の中を走っているので、本当にこのバスで合っているのかしらと不安になった。

しかし、道が開けたと思ったら、もうそこは上品な避暑地だった。美しいレンガ組の建物、広い道、濡れたような若葉の木々に上品さがあふれている。雲仙は標高約700mの位置にあり、長崎の奥座敷と言われてきたところだ。海も近く、関東で言うところの箱根のような土地らしい。そして、温泉街である。

窓を開けていないのに、霧に混じって硫黄のにおいがした。わーっと思う。先ほどまで森の中を走っていたのが嘘のように、あたりに湯治客の姿が見えた。地獄と呼ばれる源泉のすぐ脇をバスは走る。大変な湯気だ。

硫黄のにおいに包まれ、私は異国にやってきたような気持ちになった。

 

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バスを降りると雨は小降りになっており、かろうじて傘をささなくても大丈夫なくらいである。びっくりするくらい運がいいな、と思う。

しかし、寒い。宿に荷物を置いて、昼食をとった。温かいちゃんぽんが美味しい。お腹が満たされると気合が入った。

雲仙に来た目的は、雲仙観光ホテルというクラシックホテルを見るためである。私は歩いてホテルのある場所へ向かった。そうやって歩いている間にも、雨が上がっていく。たどり着いた時には、空に少しだけ晴れ間がのぞいていた。

ちょうど正午を少し過ぎたくらいの時刻である。昭和10年創業のクラシックホテルのアプローチに立って、私はスイスのシャレ―様式を取り入れたという建物を正面にのぞんだ

みずみずしい並木がすーっとホテルに続く道を引いて、その奥に想像していたよりもずっとこぢんまりしたかわいい建物がある。シンメトリーな道の真ん中に立って、私は写真撮影をした。周りには誰もいない。これだけでも大変贅沢な時間である。

しかし、撮影をしていると後ろから高級車がやってきた。道を開けて、私もホテルの敷地に入ることにする。

ホテルの車寄せに、タキシードのような制服を着たホテルの人がおり、車を誘導していた。怖い顔の人だ。いかついという意味でなく、端正な顔立ちのお兄さんなのだが、眉間に皺が寄ったような表情をしている。

高級なクラシックホテルは大抵どこもそうだが、ノコノコ徒歩で来る人間などいない。誰もが高級車に乗って、ホテルの前まで車をつけて、初めてそこで足を地に下ろす。1人でスニーカーで歩いてきた私は、怖そうなお兄さんに内心ドキドキした。

「あの、見学をしてもいいですか?」

先に来た車の客を誘導し終わった彼に、私は恐る恐る尋ねた。彼は眉間に皺を寄せたような表情のまま、「ロビーだけならいいですよ」と言う。明らかに歓迎されていないが、私がこのホテルに見合うだけの人間でないのでしょうがない。

もちろん私は、事前にこのホテルに電話をして、見学だけでも中に入っていいことを確認している。しかし、ここでお兄さんにそれを言っても無粋だ。軽く目礼をして、私は中に入った。

 

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「日本クラシックホテルの会」という会に、雲仙観光ホテルは名を連ねている。この会に認定される条件は、第二次世界大戦以前に建てられその建物を維持(改修、復原を含む)していること、文化財や産業遺産などの認定を受けていることなど。現在9ホテルで結成されており、雲仙観光ホテルは九州では唯一の認定ホテルである。

昭和10年創業、今年で87歳になる老舗だ。昔の建物は、外に対して中が暗い。ずっしりとした入り口に踏み出すと、しかし大輪の鮮やかな花が活けてあった。みずみずしい花に視線を引きつけられてから、私はロビーを見回した。

不思議な造りのロビーだった。横に長く、半地下のようだが私は一度も階段を降りていない。気づいたのは、正面がすぐ階段になっていること、ロビーが続く先もまた階段になっていて上がった先がラウンジになっていることだ。

このロビーが船をイメージして作られたということを、私は事前に本を読んで知っていた。しかし、いざその空間に来てみると、想像以上に船の中にいるようである。あたりを見回す。統一された空間がぬくもりを持ってたたずんでいる。半地下のようなのだが、外からの光が自然に差し込んで、実にやわらかく感じられた。

先に入ったお客さんは、いつの間にかどこかへ行ってしまっていた。家具も調度品も素晴らしい。西洋風なのだがどこか素朴で、モダンさとなつかしさがないまぜになって調和している。ロビーの奥に書が掛けてあった。「博愛」とあり、献辞は「橋本先生」、そして署名は「孫文」とある。ああ、孫文と交流があったのだなと思った。

雲仙観光ホテルは、都会と言うと東京や関西よりも海外、特に上海からの客が多かったのだという。戦前の時代から海外の賓客を迎えてきた歴史が、こんなところにも表れていた。

ロビーの階段を上ってラウンジに出ると、正面にレストラン、そして右手にバーがある。ちょうど食事時であるが、人気(ひとけ)はなく静かだ。レストランの前にホテルの人が立っている。声を掛けられた。

「お食事ですか?」

「いえ、見学だけなんですけど……」

するとこちらのお兄さんは、なんと閉まっているバーを指して中に入っていいですよと言ってくれた。私はびっくりする。

「いいんですか?」

「どうぞ」

背の高いお兄さんがドアを開けて通してくれた。私は内心「やったー」と声をあげる。こぢんまりしているが、こちらも内装や調度品が素晴らしい。お兄さんはカウンターを指して説明をした。

「以前は、あの壁の方までカウンターが続いていたんです」

「へぇー」

「でもそれ以外はほぼ創業当時のままですよ。このモザイク模様の床も当時のものです」

私が写真を撮ってもいいですかと聞くと、どうぞと言われた。こちらのお兄さんはとても親切でよかった。私はありがたく写真を撮る。バーを出ると、今度はレストランにも入っていいという。

「いいんですか?」

「ええ、でもお客様がお食事をされているので、写真はお控えください」

雲仙観光ホテルのレストランダイニングの内装が素晴らしいことは、何度も写真を見て知っていた。通してくれるなんて思っていなかったので、私は感激してしまう。

広々とした200畳のダイニングは圧巻だった。横に長いロビーとは対照的で、とても明るく天井が高い。吹き抜けのような空間の広さである。淡いグリーンに真っ白なテーブルクロスがかけられたテーブル、美しい照明と細部まで凝った内装が素晴らしい。

「この寄木の床も創業当時のものです」

昭和10年ですよね? うわー」

広いレストランでは、2組が食事をしていた。この日はGWの連休初日。チェックインするなら、今日の15時以降からであろう。私はもっとも人が少ないと思われるこの日のこの時間帯を狙ってきたのである。ちなみに、このレストランは完全予約制なので、この時私は食事したくてもできないのだった。

レストランを出て、私はホテルの人にお礼を言った。なんとも素晴らしいお土産になった。私はそれからもしばらくロビーと館内ショップを見学し、ホテルを後にした。本当はこのホテルの図書室も見学したかったのだが、残念ながらそこまで見せてくださいという勇気はなかったのだ。いつか、またの機会にとっておくとしよう。

 

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それからは、雲仙ビードロ美術館へ行ったり、雲仙地獄の観光をしたりした。どちらも楽しかったが、やはり私の雲仙でのメインは雲仙観光ホテルである。

ビードロ美術館の所蔵品はかなりの価値があるのだろうと思えるものだったが、どうにも展示が無造作に見えてしまって困った。あのホテルの統一感と展示の素晴らしさを見ると、やはり価値観を作り出すのはセンスなのだなぁと思う。

観光をしている間に、また雨が降り出し夕方には大変な寒さになった。雲仙は温泉地なので、私は温泉のある銭湯に行こうと思っていたが、これでは湯冷めしてしてしまいそうだ。温泉は諦めることにした。

普通ならガッカリしてしまうところだろうが、私は特に温泉にこだわりはないので、まぁ仕方ないくらいの感覚である。

面白かったのは、銭湯に行こうと思って雲仙温泉観光協会というところを訪ねた時に、一般人のような男の子(20歳そこそこくらい)が対応してくれたことだ。

建物に入ると、紐のある帽子をかぶった青年が気づいて対応してくれたのだが、彼は係りの人でいないので地図がないという。見れば、奥で係りの人らしき女性が電話対応をしていて手が離せない様子だ。

「僕はここの人ではないんですけど…」と青年はしきりに言いながら、オススメの銭湯を3つくらい教えてくれた。地図も発見できて、印をつけてくれる。詳しいじゃないか、君は一体何者なのだ、と思う。

「温泉に来られたんですか?」

「うーんと、普通はそうなんでしょうね」

青年が不思議そうな顔をするので、私は雲仙観光ホテルのことを話した。そういう目的は珍しいですね!と言われる。この子も私のことを変なヤツだと思っているかもしれない、と思うとおかしかった。

というわけで、温泉に入れないのは仕方ないが、せっかくあの青年に教えてもらったことが活かせず、それだけは少し残念だった。

 

早起きをしたので、夜も早く寝ようと床を敷く。驚いたことに、隣の部屋のテレビの音が聞こえた。随分音量を高くしているようだ。

私は寝たかったので、対抗してスマートフォンで音楽を流すことにする。タイマーつきでなぜかショパンピアノ曲を流しながら眠りについたが、たぶん碌に聞いていなかっただろう。