毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

【島原半島1泊2日】後編 坂口安吾とキリシタンの城跡の巻

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島原半島2日目は、いよいよ原城島原の乱キリシタンたちが籠城し、幕府軍に敗北した城)跡へ向かう。

目が覚めると、昨日の冷たい雨が嘘のように天気は快晴だ。気温もかなり上がっている。昨日は長袖の服を着ていたが、もう一枚は半袖の服を持ってきていたので助かった。私は宿をチェックアウトすると、早々に南島原行のバス停へ向かった。

バス停のすぐ後ろでは、巨大なリゾートホテルらしき建物が建設中である。普請の音を聞きながら、観光地として雲仙はこれからも大丈夫なのだな、と安心する。

これは地方を旅していると感じることだが、現代は基本的に、客単価が高いリゾート地の方が景気がいいらしい。私は巨大資本が好きではないが、庶民に親しまれていたかつての観光地がシャッター街となっている様を見るといつも胸が痛い。その土地の人びとの生活が何より大事である。

バスが来て乗り込む。早朝のことで、客は私しかいない。席に座ってきょろきょろしていると、運転手さんから「このバスは諫早(いさはや)には行きませんよ、大丈夫ですか?」と声を掛けられた。

「あ、はい大丈夫です」と私は返事をし、降りるバス停を告げる。運転手さんも安心したようだ。実はこの島原旅行の最中、もう一度バスの運転手さんから「このバスで合っていますか?」と声をかけられた。私が明らかに土地の人間ではない(泊りがけの荷なので、すぐにそれとわかる)ので、バスの運転手さんは心配してくれるのだろう。一度バスを乗り逃すと、次のバスが来るのが一時間後という場合が多いのも大きい。

しかし、わざわざ声をかけてくれるのは、やはりとても優しいことだと思う。これも地方を旅する醍醐味と言えるだろう。

 

 

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バスに揺られて、原城跡が近づいてきた。荷を置いてから戻って来るので、私はバスに乗ったままその城跡を見つめる。

いわゆる、天守閣や石垣、あるいは堀などという「お城」の要素は全くない。ただ、かつての城壁の跡が緑に覆われているのが見えるだけで、むしろそれは古墳跡に似ている。周りにも何もない。ここでかつてキリシタン一揆があり、何万人という人たちが死んだのだと知らなければ、おそらくただのだだっ広い退屈な場所だろう。

私は二つ先のバス停で降りて、原城図書館のコインロッカーに荷物を入れた。必ず戻って来るので、と図書館の人に荷を置く許可をとり引き返す。民家の並ぶ道路を歩いた。まだ午前中ということもあり、車も少ない。

こんもりした城跡が見えてくると、その敷地の大きさに改めて気づいた。ああ、大きい。約2万数千人が籠城し戦った城か、と思う。

敷地内へ入っても、しばらく変わりばえのない風景が続いた。私がてくてく歩く横を、車が抜けていく。本丸跡まで車で行けるようになっているのだ。これは後でわかることだが、道路を引けるほど、この城は一揆の後再建できないよう徹底的に破壊されたということなのだった。

本丸跡よりも先に、海が見えた。よく晴れているので、青い水面が美しい。なんでもない風景であるが、綺麗だなぁと思い私は写真を撮った。

 

 

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私が南島原の地を訪れた直接のきっかけは、坂口安吾である。「堕落論」や「白痴」、「戦争と一人の女」などの代表作で知られる、戦後無頼派の作家だ。

彼がキリシタンに興味を持ち、長くこのテーマに取り組んでいたことは、あまり知られていない。というのは、熱心に取り組んでいたにも関わらず、安吾キリシタンものの大作をとうとう仕上げることができなかったからだ。

しかし、その断片は彼が残した様々な文章から知ることができる。「イノチガケ」「島原の乱雑記」「島原一揆異聞」「島原の乱(草稿。生前未発表)」「わが血を追う人々」など。

また、安吾は長崎を2度訪れている。1回目は1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まる寸前のことだ。2回目の訪問は1951年(昭和26年)である。晩年、安吾は日本各地を訪れ巷談師的な語りで紀行文を書く。2回目の訪問もその一環なのだが、長崎の回がとても感傷的なことには少し驚いた。

1回目と2回目の訪問の間に流れる10年という歳月と、戦争が終わったという時世もあることだろう。しかし、そこには彼の人間を見つめる悲しくも切ないまなざしがある。迫害を受けた異教の人びとだとか、原爆を落とされた都市だとかではなく、もっと根本的な人間の切なさに、私は安吾が自分を重ねているように思えた。

彼はなぜ、キリシタン史にこれほど興味を持ったのだろう? 安吾も訪れた原城跡に行ってそれがわかるとは思えないが、せっかくだから行ってみようという気になったのである。

 

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原城跡は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産に登録されている。しかし、私が訪れたのはまだ午前中の時間帯だったこともあり、城跡に人影はまばらだった。

本丸跡はさすがに城の面影が残っている。島原の乱が起こったのは、1637年(寛永14年)、江戸幕府将軍三代・家光の頃だ。1612年にはすでにキリスト教の禁教令が発布されており、1616年に入封した松倉重政の圧政とキリシタンへの弾圧によって、領民の不満が爆発したものが発端と言われる。

江戸幕府からは一国一城という掟が下っており、島原藩には日野江城があったため、原城は当時すでに廃城だったそうだ。キリシタンを含め、一揆勢はここに立てこもり3か月もの間籠城戦を行った。九州一円のキリシタンの蜂起を期待しての籠城だったらしいが援軍は来ず、結果として幕府軍に敗北する。しかし、籠城の期間の長さからして、いかに一揆勢が幕府軍を苦しめたかがわかるだろう。一揆勢・幕府勢あわせて、4万人もの死者が出たそうである。

私はそんな島原の乱の歴史を思い返しながら、崩された石垣ばかりが残る城跡を見て回った。三方を海に囲まれ、4月末の新緑がただただ美しいばかりだ。老年の夫婦とお孫さんらしき小さな子供が、かつての城壁の縁に立って海を眺めている。きれいだね、と女性が声をかけているが、女の子は地面の草の上に座り込むと、おもちゃを広げて遊んでいた。

 

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天草四郎像を見てから、私は来た方向と反対側から城跡を下ることにした。海に続く長い坂道を下りていると、すーっと音が消えていき、あれ?と思う。それまでは鳥の声やら虫の声やらが響いていたのに、急に無音になったのでおかしいなと思ったのだ。しばらくすると、浜に打ち寄せる波の音が聞こえてくる。あ、海に出たからかなと思った。

坂を下りきったところに、案内板がある。「天草丸」とあった。おや。これは安吾が書いていたところだ、と思って私は不思議な縁を感じた。

私は城趾の入口を探して道にまよひ、昔は天草丸といつた砦の下にあたる浜辺の松林で、漁夫らしい人に道をきいた。返事をしてくれなかつた。重ねてきいたら、突然ぢやけんに、歩きだして行つてしまつた。子供達をつかまへてきいたが、これも逃げて行つてしまつた。すると、十四五間も離れた屋根の下から、思ひもよらぬ女の人が走りでゝ来て、ていねいに教へてくれた。宿屋で、何か切支丹のことを聞きださうとしたが、主婦は、私の言葉が理解できないらしく、やゝあつてのち、このあたりではキリスト教を憎んでゐます、と言つた。

――「島原の乱雑記」坂口安吾 より

安吾の文章からは、一揆の悲惨さよりも、信仰の悲しさが伝わって来る気がする。しかしそれは、宗教そのものがむなしいという意味ではないだろう。私には、彼は人間に(自分に)そもそも救いはあるのかということが知りたかったのではないかと思えた。

 

 

 

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その後、私は有馬キリシタン遺産記念館を見学し、さらに島原に出て島原市内を観光した。島原市は普段は閑静な町なのだろうと思われるところだったが、ゴールデンウィーク中ということもあり、観光客の姿も見えて賑やかだった。

しかし、それらはとうとう私の心を動かさずに終わった。島原の町は私を歓迎してくれたが、それよりも私は、あの何もないただ美しい海が広がっているだけの原城跡の方が心に残った。

 

実は私は、今回の旅行に行く前に妙な話を聞いていた。私が、今度島原に行くんですと話すと、たまたま「私も行ったよ」という人がいたのだ。その人は、原城跡に行って気分が悪くなったのだという。

「気分って?」

「なんだか体がおもーくなって、気分が晴れないというか。変なものを連れてきちゃったみたい」

そして彼女はその後、神社へ行ってお祓い(?)をしてもらったのだそうだ。すると、体の重さは良くなったのだという。

これはつまり、原城跡に怨念のようなものが残っていて、彼女はそれに引きずられてしまった、という文脈であろう。それは私もわかる。何しろ、血みどろの籠城戦で4万人が死んだ場所だ。

しかし、そういう物語を私は良しと思えなかった。安吾はとうとう、島原の乱についての物語を完成できずに終わったのかもしれないが、彼の断片的な物語は私をその地へと呼んだ。それが今回の旅で、怨念だのに書き換えられてはたまらないな、というのが正直なところだった。

 

今こうやって島原半島の旅を振り返ると、本当にいい旅行だったな、何より天気に恵まれてすごく幸運だったな、と思う。どうやら私は、私なりの物語でこの旅を終えることができたらしい。

まぶしいほどの新緑と青い海に囲まれた原城跡は、これからも私の中で、とても美しい場所として記憶に残り続けることだろう。