毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

【新潟旅行3泊4日】人生で2度訪れる場所 ~その② 松之山・高田編~

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新潟旅行2日目は、十日町市の松之山と、上越市の高田へ向かった。

ゴールデンカムイを読む前から私が新潟へ行きたいと思っていたのは、そもそも私の好きな作家である坂口安吾が、新潟の出身だからである。1度目の新潟旅行の際、交通の便が悪い松之山に行けなかったので、いつかぜひ行きたいと思っていたのだ。

 

堕落論」「白痴」等で著名な無頼派作家・坂口安吾が生まれ育ったのは新潟市内である。では、そんな彼と松之山にどんなゆかりがあるかというと、彼の叔母と姉の嫁ぎ先が松之山の村山家という家だったのだ。

安吾はこの村山家をたびたび訪れ、松之山を舞台にした作品をいくつか書いている。「黒谷村」「逃げたい心」そして『不連続殺人事件』などは松之山を舞台にしているらしい。

現在、村山家邸宅は大棟山美術博物館として一般公開されており、その中には安吾の著書や関係資料などの展示がされているとホームページにあった。なので、今回満を持して訪れるわけである。

 

 ***

 

こちらはまつだい郷土資料館の内部

大棟山美術博物館の最寄り駅は、北越急行ほくほく線まつだい駅である。長岡からはまず上越線越後川口駅へ、越後川口駅から飯山線十日町駅、十日町駅から北越急行ほくほく線の超快速スノーラビットまつだい駅へ、という手順で行った。

たどりついたまつだい駅は、無人駅である。改札には誰もいない。しかし、思っていたよりもずっと降車客が多かった。家族連れやカップルといった、明らかに観光客だとわかる人たちが電車を降りて行くので、私は意外な気がした。

 

グーグルマップを眺めていた時、十日町市には美術館が多いなと思った記憶がある。まつだい駅にも、「まつだい「農舞台」」という総合文化施設が隣接しており、降車後すぐに足を運ぶことができる作りになっていた。

展示されているのは、主に現代アートらしい。規模の大きな体験型の現代アートを、カップルや家族でめぐるのは楽しかろう。また、雪国の無人駅にそのような人たちが訪れるのは、町にも活気が出てとてもいいことだなと思った。

 

とはいえ、この時の私は残念ながら、ゆっくり現代アートを見る時間がない。大荷物を持ったまま、コインロッカーはどこだろうとうろうろした。

と、駅を出た私の目に、けやき造りの立派な民家が目に入る。明らかに歴史的建造物だとわかる造りで、まつだい郷土資料館とあった。現代アートは見る時間がないと言いながら、私はこういうものに目がない。ああ~きれいなおうちだ、と思い、ついふらふらと中に入ってしまった。

受付の人にコインロッカーの場所を聞こうという思いもあったのだが、中には誰もいない。大荷物は移動に邪魔なので、出た方がいいかなとも思う。しかし、あまりに立派なおうちなので、私の足はいつの間にか靴を脱ぎ、そのまま上がりこんでしまった。

 

この資料館は江戸時代末期に建てられた民家を移築したものらしい。

解説パネルには、けやき造りの母屋(木造2階建)は約10mもの大黒柱と梁で支えられており、豪雪にも耐えうる重厚な造りだとある。囲炉裏や座敷、茶の間、客間などが当時のまま残っていて、どこも清潔にしてありとても美しい。

私は額に汗したまま、広く美しい家の中で思わず正座して、そのセンスに見入った。一部屋一部屋が大きく、戸板は漆塗り、高い天井に太い梁、どれも豊かさの象徴でありながら、それがすべて自然で嫌味なところが全くない。本当にきれいだ。

2階にも上がってみる。立派な書院造の襖に書があって、これも大変素晴らしかった。こういうところにこういう作品があるんだよなぁ、と思う。中俣天遊という人の書で、新潟県を代表する書家なのだそうだ。

もっとゆっくり展示を見たかったが、あくまで私の目的は大棟山美術博物館である。大荷物を抱えたまま、私はよたよたと資料館を出た。

 

 

無事コインロッカーを発見することができ、バスの乗り場と時刻のチェックを終え、ようやく安心して一息ついた。バス乗り場は道の駅(?)と隣接しているので、私は道の駅で昼食をとることにする。

私はこの日もかなり早めに起きて行動していた。時刻はまだ、11時を過ぎたくらいである。食堂が開いていないため、コンビニでお昼を買って、駅の座敷スペースのようなところで昼食とした。

私の背後にも昼食を食べながらくつろいでいる人たちがおり、その人たちの会話がとぎれとぎれに聞こえてくる。どうやら彼らは親戚で、これから親族の何周忌かのお墓参りに行くところらしい。朝5時に起きたよ、という彼らの笑いさざめく声が聞こえる。

親戚が集まると、とかく誰かの悪口を言いがちであるが、彼らは本当に仲の良い親族のようだ。始終穏やかな調子である。このように朝早くから集まって、一緒にその家なり墓なりに行くのだから、おそらく身内の中でも特に親しい人たちなのだろう。

私はコンビニのおにぎりを食べながら、このような何気ない会話も、もしかしたら一つの時代の過渡期や終わりの声なのかもしれないなぁ、ということを考えていた。

 

 ***

 

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大棟山美術博物館までの道のりで、ここは豪雪地帯なのだな、ということをしみじみ感じた。家の玄関は二重扉のところが多く、入り口前には必ずステップがあって数段高くなっている。雪を防ぐために屋根は張り出し、家の脇には梯子が立てかけてあった。

バスはぐいぐい山道へ入って行く。ところどころに季節の花がこぼれるように咲いていて、私の目は特に合歓(ねむ)の花に引かれた。細い糸のような花びらが集まったようなこの花は、真夏の青空の下でもどこかひっそりと静かさをたたえており、まるで安吾の松之山作品とそのまま地続きになっているかのようだ。

バスを降りて、大棟山美術博物館まで歩く。あたりは山に囲まれ、真っ白な雲が浮いている。体中に汗をかきながら、急な坂を黙々とのぼる。すると、遠くからでもわかる堂々とした杉並木が続いているのが目に入った。近くに来てみても、ちょっと異様な感じのするくらい周囲から浮いた杉並木である。石段は苔むして半ば隠れていた。この先に由緒正しいお寺でもあるのかな、と私は思う。大棟山美術博物館の後に寄ってみたいな、と。

ところがなんと、この杉並木の先が大棟山美術博物館だったのだ。さんざん道に迷った末、大棟山美術博物館の正門にたどり着いた私は、来る前に見た杉並木が眼下に続いているのを見てびっくりした。しかし、この杉並木がたどり着く正門も負けず劣らず立派だったので、この土地における村山家の権威を改めて感じた。正門は古刹のような風格を備え、どっしりと大きい。明らかに、個人宅の門構えではない。

正直な感想を言うと、大棟山美術博物館では、私はこの門にもっとも感動した。その前にまつだい郷土資料館を見ていたからかもしれない。青葉の繁る中、堂々とした男らしい正門の前に立つと、大きなものと対面している高揚感があって、とてもいい気分だった。

 

 

さて、大棟山美術博物館である。村山家は元造り酒屋というだけあって、大変な大邸宅であった(酒屋は資本がないと経営できないので、昔は酒屋といえばお金持ちの代名詞的な存在だったらしい)。

部屋数が多く、しかもどの部屋も良材が使用してあることが説明書きに書いてある。波打った窓ガラスは早くからこの家がガラスを張るだけの経済力があったことがわかるし、展示してある所蔵品の数々も、どれも値打ちがありそうだ。

大棟山美術博物館の2階の1室が、安吾の資料が展示してある部屋になっている。発表当時の安吾作品がケースに収められているほか、研究書や関連資料などが置いてあり、安吾の写真パネルが飾られていた。

しかし、特に貴重な資料が見られるというわけではなく、詳しい説明もないので、その空間を楽しむといった感じだ。私にとっては、この家の大きさそのもの、この権威と富そのものが、もっとも安吾について思いを馳せる材料になった。

 

坂口安吾の作品には、特に貴族的な描写は見られない。むしろ彼の作品を読んで私たちが感じるのは、唯物論的なリアリズム、それこそ「必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい」という徹底的な現実主義である。

安吾の生家は残っていない。しかし、彼の叔母と姉が嫁ぎ、彼自身も何度も訪れ滞在したというこの家を見ると、私は彼もまた貴族的な生まれだったのだと感じずにはいられない。その上で、安吾無頼派と呼ばれるようになる作品の数々を書いたのだ。

それは、彼が生まれから自由だったということだろうか? 彼は自身の生い立ちに優越感を持っていなかったのか? 彼は本当に物質主義者だったのか?

私はそうは思えなかった。しかし、安吾の作品がそれを証明しているのだから不思議なものだ。安吾の伝記や評論などを読まれた方は少なからず同じようなことを感じられているかもしれないが、私は彼の伝記を読むと、作品との解離性に時々首をひねる。それでいて、やはり彼と作品は一心同体、決して引き離すことのできない同じものだということも感じる。

そんなことを思いながら、私はこの巨大な邸宅を見て回ったのだった。

 

 

大棟山美術博物館を見終わった私は、近くの小学校にあるという安吾の文学碑を見に行くか迷った。しかし、碑の正確な場所がわからない上、真夏のよく晴れた日に長時間歩いたら熱中症になる恐れがあると思ったので、諦めた。

帰りのバスが来るまでに、少し時間がある。あたりにカフェや喫茶店などはないので、スーパーでアイスを買って、立ったまま食べた。青空の下、屋外でアイスを食べるなんて何年ぶりだろう。とても美味しかった。

バス停のそばにも、静かに合歓の花が咲いているのが目に入る。夏の花なのに、それはとてもささやかでおとなしい印象を人に与える。それでいてどこか官能的なイメージがあるのは、やはりその特徴的な名前のせいだろうか。

私は安吾の松之山を舞台にした作品のひとつ、「黒谷村」を思い出す。それは一人の青年が黒谷村(松之山がモデル)に来て、ひと夏を過ごす物語である。しかし、そこには夏らしいさわやかさは見られない。やるせなくなやましい情欲とともに、ところどころに死の影がちらつき、真っ白な夏雲がただたださみしさを感じさせる。「風博士」に続く安吾の初期代表作のひとつであるが、不思議なほど全編に挫折感のただよう作品である。

私が安吾作品に共感するのは、その強靭さにではない。私は彼のうらさみしいほどの孤独、滑稽なほどはりつめた緊張感、そして人間の悲しさと愛しさが好きなのだ。私は彼のもっとも弱い、プライベートな部分が好きなのだ。

バスが来て、私はそれに乗り込む。上って来た山道を、今度はするすると下っていく。夏の陽はまだ高かった。しかし、なぜか松之山は、私の中でとてもひっそりとした場所というイメージになっている。

 

 ***

 

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再び電車に乗って、私は上越市に向かう。翌日は直江津港から佐渡に向かう予定なので、ホテルは直江津で取っている。一度直江津で降りて荷物を預け、私は三度(みたび)電車に乗り込み、高田へ向かった。ドキドキした。

高田は私がとても好きな街だ。以前この街へ来たのは、「赤い蝋燭と人魚」の作者として有名な、小川未明の文学館へ行くためだった。文学館とその周辺の環境は素晴らしかったが、なぜか私は、この街自体をとても好きになったのである。

それはなぜなのか、上手く説明できない。駅に降り立って、煉瓦造りにステンドグラスがあしらわれた駅舎を見た時から、胸が高鳴るのを覚えた。駅から続く城郭のようなデザインのアーケードも素敵だったし、山間の奥ゆかしい雰囲気が街全体に感じられることにもときめいた。派手なところがまったくなくて、上品で、落ち着いていた。すてきな街だった。

一方で、それは私の中の思い出でしかないのでは、という思いもあった。ここにまた来られたことはとても嬉しかったが、あまりに私の中でイメージが美化されているのでは、という心配もあったのだ。

 

 

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以前来たときに、高田城に蓮池があるのを覚えていた私は、ここに初夏に来られたらいいだろうな、と思っていた。なので、まずは高田城の蓮池に向かうことにする。

その道すがら、旧師団長官舎があるのでこちらも寄ることにした。明治43年に旧陸軍の師団長・長岡外史中将の邸宅として建てられた建物が保存されて、現在は一部がレストランになっているのだそうだ。今回はゴールデンカムイをめぐる旅でもあるので、行かないわけにはいかない。

途中、少し雨がパラついてきて焦る。あたりは完全な住宅地だったので、道を間違えているのではないかと思ったが、周囲に溶け込むようにその洋館はあった。外装からしてとてもロマンチックな、美しい建物である。

折り畳み傘を畳んでから中に入って、おやと思った。全体的に、印象が新しいのだ。しかし、よく見てみると、当時の雰囲気を壊さないよう上手く内装が整えてあるのだとわかった。建物や部屋の造りはそのままに、家具やカーテン、小物などがセンス良く配置されている。レトロで女性的な趣向が、洋館とよくマッチしていた。

奥から人が出てきて、レストランですか?と訊かれる。見学ですと答えると、食事スペース以外はご自由にご見学くださいと言われた。他の部屋も見て回る。旧陸軍高田第13師団のことや、第3代師団長・長岡外史中将のこと、高田の街が陸軍を誘致して一時軍都であったことなどを説明する展示もあった。歴史的な背景の説明もきちんとあって、とてもいい感じだ。

2階にも上がってみる。1階は洋間であったが、この階は畳だった。しかし家具は洋風のソファで、これまた和洋折衷のセンスがとてもいい。雰囲気を損なわないように内装をリノベーションしつつ、商業スペースと展示スペースを設け両立する。こういう建物の在り方もいいなぁと思った施設だった。

 

 

さて、旧師団長官舎の後に高田城の蓮池に行ってみると、私の記憶よりもずっと大きなものだったので驚いた。なんでも、東洋最大級の規模だという。お城をぐるりと囲む周辺がそうなので、一度に見渡せる面積ではないが、どこまでも蓮池が続いている感覚である。歩いても歩いても蓮池があるのだ。

蓮の花は、また四分咲きといったくらいだった。開いた花は清らかな美しさだったが、やはりここは新潟なのだ、と私は思う。九州よりも少し季節が遅いのだろう。花が開くには、私が来るのが早すぎたようだ。

ほころび始めた蓮の花に早々に見切りをつけて、私は次の目的地へ向かうことにした。

 

 ***

 

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目指すは、高田世界館という映画館だ。なんでもここは、創業が明治時代で日本最古級の現役映画館だというのである。建物だけでなく上映ラインナップも素敵で、ツイッターでも映画通アカウントとして有名なので、ご存じの方もいるかもしれない。

実は私は、先ほどお城の蓮池で、蓮の花がまだ咲いていなかったことが少し残念だった。なんとなく、夢のような再会を期待していたのかもしれないし、やはり街自体に夢を見すぎていたのかもしれない、という気がしていた。高田の街は美しかったが、やはりお城を離れるとその街並みはごくごく平凡なものに見えないこともない。期待をしすぎていたのではないかと思うと、そんな夢見がちな自分が嫌になるのだった。

 

 

しかし、映画館が近づいてきて、その街並みがまた変わって来た。私は高田を端正な城下町と思っていたが、このあたりはまた様子が違う。古い木造の家並みが続いており、小売店が多く町家といった雰囲気である。そのひさしが延長されて、通路の上を屋根のように覆っているのが、とても珍しかった。

後でわかることだが、このひさしは「雁木(がんき)」と言って、高田はこの雁木の総延長距離が日本一なのだそうだ。冬季の通路を確保するための雪よけなのだが、とても風情があって美しい。軒を連ねるお店も、歴史のありそうな和菓子屋さんやお味噌屋さん、お豆腐屋さんなどがあり、歩いているだけでとても面白かった。

私はがっかりしていた気持ちをすっかり忘れてしまった。好きだと思っていた街の新たな面を発見し、心が満たされる。勝手なものだと思ったが、嬉しかった。

 

そうやって歩いているうちに、何やら妙な音が聞こえてくることに気がついた。あたりの古い町並みに似合わない、人工的なくぐもった音がするのだ。何だろうと思っているうちに、高田世界館へたどり着いて、私はまさか…と思った。

このくぐもった音は、もしかしてこの映画館の音漏れなのでは?

そのまさかだった。映画館の扉を開けると、もう一つ扉を隔てたすぐそこが劇場で、まさに映画が上映中だったのである。その巨大な音響が漏れて、外にまで聞こえていたのだった。

明治44年に創業した建物が、当時の姿をとどめて今も使われているのだから、防音が不完全なのはある意味当然なのかもしれない。しかし、この映画館が現役でいられるのは、周囲の多大な協力があってのことだったのだな、と実際に来てみて初めてわかった。そう思うと、よりこの映画館が尊いものに思われる。文化施設は、街の協力とともに成り立っているのだなぁと思った。

 

受付の方に見学料を支払い、上映中の映画が終わるのを待つ。映画と映画が上映される間の時間のみ、自由に劇場の見学ができるのである。

この時上映されているのは、インド映画だった。先ほど受付にいた映画館の方(まだ学生さんかな、と思うくらいの若い女性)に聞いてみると、高田世界館はこの時、独自にインド映画特集をしているとのことだった。明治創業の映画館でインド映画特集があっているなんて、その事実だけで胸が踊る。上映中の映画もクライマックスのようだ。インド映画らしく、みんなが踊りに踊っていることが容易に想像できる、アップテンポの陽気な音楽が、爆音で鳴り響いていた。

やがて映画が終わり、劇場から人が出てくる。それと入れ替わりに、私は中に入った。レトロな赤い椅子が並んでいるのも、桟敷席があってぐるりと劇場を囲んでいるのも、とてもノスタルジックで素晴らしい。私は夢中で写真を撮った。

ふと劇場の入り口を見ると、先ほど出てきたお客さんがその場ではしゃぎながら、映画の内容についてきゃっきゃと笑い合っている。男女半々ほどの若い子たちで、先ほどの映画の真似だろう、その場で踊るポーズを取っている子もいた。

いいなー、と思う。青春だ。映画館自体も素晴らしいが、それ以上に私は、その人たちがこの街に住んでいることを羨ましいなと思った。

映画館を出る間際、私は受付の人にお礼を言う。私は通常、人から訊かれない限り自分がどこから来たかを言わないのだが、この時は言いたくなって、自分から言ってしまった。

受付の人のリアクションは私の想像以上で、彼女はえっと言って息を飲み、固まってしまった。その反応に、私もびっくりしてしまう。

「私、高田の街が大好きで、来るの2回目なんですよ」

とりあえず、続けてそう言っておいた。聞けば、彼女もこの土地の人ではないそうだ。私の言葉を聞いて、彼女も、ここいい街ですよね、と同意してくれた。

やっぱり言わない方が良かったかな、と私は少し恥ずかしくなりながら映画館を出る。けれど、言いたくなったのだから仕方がない。あの時の私は、そういう気分だったのだ。

 

 

この日の夜は、そのまま高田の雁木通りの居酒屋さんに入った。

お店に入って、一人ですと言うと驚いた顔をされる。まだ6時を回ったくらいの早い時間なので、ほかにお客さんはいない。私がカウンターにかけると、女将さんが話し相手になってくれた。

「なんでここに入ったの? ここ、駅からもちょっと離れてるでしょう」

「高田世界館さんに行きたくて」

「ああ、高田世界館さんね。ああいうところが好き?」

「はい」

「どこの人?」

女将さんはサバサバしたとても気のいい方で、私のほぼ新潟横断の旅程を知ると、無茶だね!と笑った。

「あなたさぁ、ここまで来て新潟に帰るのは効率が悪いんじゃない?」

「え?」

「ここから新潟に行くより、小松空港(石川県の空港)から帰った方が早いんじゃない? ここから金沢まで2時間半だよ?」

そういう行程は考えたことがなかった。しかし、小松空港から福岡空港への直通便は出ているのだろうか? そう尋ねると、女将さんはうーんと考え、それはわからないねぇと言う。

「こっちから九州には、なかなか行かないからねぇ」

私は出されたおかずに箸を伸ばす。頼んだのは、夜ご飯セットというお店のお任せコースだ。サラダの豚しゃぶ乗せだとか、きゅうりの塩麹漬けだとか、茄子の蒸し焼きの生姜醤油和えだとか、どれもほっとする味でとても美味しい。

「ここはほんとに冬は大変だから…。表の道のね、ずっと雁木が続いているでしょう。ひさしが張り出したようなの」

「はい」

「あの通路はね、みんな私有地なのよ。個人がお金を出して作ってるの。今は補助金とかも出るけど、一時はもうやめようかという話も出てね」

でも、ないと困るから、という意味合いなのだろう。景観のために残しているのではなく、長く厳しい冬を乗り越えるために、必然的に残っている。女将さんの口ぶりからは、そのような含みがうかがわれた。彼女は、この土地の人なのだそうだ。私は質問する。

「金沢の方によく行かれます?」

「そうね、新潟よりも金沢かな。いろんなところに行きますよ」

「どこがおすすめですか?」

女将さんはなかなか答えられず、とても可愛く迷いに迷ってからこう答えた。

「富山のおわらだね」

「おわら?」

「そう。風の盆と言ってね、盆踊りなんだけど、とても風情があって綺麗なの。男の人もね、こう、編み笠を被るのね」

「へぇー」

「盆踊りなんだけどほんとに、とっても優雅で。静かなんです。三味線や胡弓と、そして地唄で踊るの」

「えっ!? 生演奏ですか?」

「そう、だからね、うるさかったら聞こえないでしょう。夜にね、静かにしてください、静かにしてください、って言うのね、そして静かになったら踊るの。すーってね。とっても綺麗」

女将さんは、ここでうっとりするような、遠くを見るような目で続けた。

「本当はねぇ、お嫁に行く前に踊るのが本当のおわらで、今は観光だから人がいっぱいだけど…。本当のおわらは、観光客がいなくなってからなのよ。私は1回だけ見たんだけどね、ほんとにお嫁に行く前の人が踊るのを…。観光客が帰った、夜遅くにね……」

女将さんが話すのを聞きながら、私もうっとりした。人生で、旅先で、ずっとこのような話だけを聞いていたいなぁ、と思う。

しかし、時間が経つにつれてお店にどんどんお客さんがやってくる。夜ご飯セットを食べ終わった私は、お勘定をしてもらった。

また来てね!と女将さんに言われる。また来ます、と笑いながら私も答える。これも私の幸福な記憶の一つである。

日が暮れ切った高田の町は、とても暗かった。真夏でこれなら、雪の何メートルも降り積もる夜なら、その寂しさはどれほどだろう。固く戸が閉められた家々の雁木の下の私有地を、私は潜るように歩いていく。

私がこの土地の冬を知ることは、果たしてこれからあるのだろうか。