毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

恐竜と禅寺とだるまちゃんの旅 ―福井旅行2泊3日その③

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福井旅行2日目も、盛りだくさんな1日だった。行ったところは、一筆啓上 日本一短い手紙の館→中野重治記念文庫→越前竹人形の里→恐竜博物館である。

 

最初に私が向かったのは、坂井市丸岡町だ。

この土地には、日本最古とも言われる天守閣を有する丸岡城がある。しかし、私が丸岡町へ行くのはこのお城を見るためではない。旧坂井郡高椋(たかぼこ)村(現在の坂井市丸岡町)一本田(いっぽんでん)に生まれた文学者、中野重治の蔵書約1万3千冊が保存された施設「中野重治記念文庫」へ行くためだ。

 

中野重治記念文庫がある丸岡図書館は、9時半からの開館であった。私は9時ごろに図書館前に着いたので、開館までの間、お隣の「一筆啓上 日本一短い手紙の館」へ行くことにする。

この建物は、毎年行われている「日本一短い手紙 一筆啓上賞」コンクールの優秀作などが展示されている施設である。このコンクールは、後の丸岡藩主となる本多成重の父親が、妻(成重の母)へ宛てた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という手紙が元となって開催されているものだ。この手紙が用件を簡潔明瞭に伝えた手紙の手本と言われていることから、1~40文字までの手紙形式の文章を募集し、毎年優秀作を表彰しているらしい。

正直に言うと、私はこのコンクールに全く興味がなかった。ハートウォーミングなエピソードにも、人と人の絆などという言葉にも、作り物めいた安っぽさしか感じられなかったのである。

しかし、実際に優秀作を見てみると大変面白かった。簡潔な文章の背後に大きなストーリーが感じられ、人間の複雑さが表現されていて見ごたえがある。

どうしてかなと思い説明を読んでいくと、この賞の応募総数はたいだい毎回3万通以上、多い年には5万通以上にも達するとあって驚いた。大変に母数の大きな賞なのだ。

この賞は、現在も公益財団法人丸岡文化財団が続けている。地方都市の文学賞にこれだけの応募があることは、素直に私を驚かせた。

 

 ***

 

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さて、中野重治記念文庫である。

開館すぐの丸岡図書館は、なんの変哲もない町の図書館といった雰囲気で、初めての場所であるにも関わらず妙に安心した。本棚も眺めながらぶらぶら歩いていると、「中野重治記念文庫」のプレートがあるのを見つける。

プレートの先には細い廊下が続いており、突き当たりには部屋があって扉が開けてあった。しかし、部屋の電気はついていない。ここでいいのだろうか? そう思いながら廊下に一歩踏み出すと、廊下沿いの棚に中野重治の著作や関連本が並べてあることに気がつく。

やはりここなのだ。私はそっとその本棚を眺めながら、でも勝手に入っていいのかな、としばらく様子をうかがっていた。ふと窓から外に目をやると、大きな石碑が立っている。そこに文字が刻まれているのを見て、あっ、中野重治の文学碑だ、と思った。中庭のような造りの隅に立っているそれは、柔らかな陽の光を浴びて静かに佇んでいる。私の足は、自然と電気のついていない突き当たりの部屋へと向かっていった。

 

実際に見るまでは、1万3千冊という数字がどの程度のものなのか想像がつかなかった。しかし、いざ目にすると「本当にこれ全部、中野重治の蔵書?」と驚いた。多いのである。小・中学校の図書館を思い出した。それくらいの量があるのだ。個人の蔵書として、1万3千冊はかなり多いことがわかった。

おそるおそる電気をつけ、あたりを見回す。入り口に芳名帳があり、その横にはスタンプ台やパンフレット、そして中野重治が自身の子供時代をモデルとして書いた小説『梨の花』の舞台マップが置いてある。私はそそくさと記念スタンプを押し、パンフレットとマップをもらった。部屋の中央の棚に、中野の私物が展示してあるのを見ようと歩いて行ったが、その手前に絵が飾ってあるのが目に留まる。絵にはこのような文面が添えてあった。

「これはすり鉢とおろし金なり。すり鉢は大きく、おろし金は小なり。ただ位置の関係にてこのように見ゆ」

確かこのような感じの文だったと思う。この文面通り、絵は奥にすり鉢が、手前にはおろし金が描かれている。それらは同じくらいの大きさに見えた。しかし、「本当は」すり鉢は大きく、おろし金は小さいのだ。同じ紙面の中に、中野重治がそう書いているのだから。

私はこれを見た時、なぜかほのぼのと嬉しくなって、ああ、本当に中野重治の記念館に来たんだなぁと思った。

 

中野重治は1902(明治35)年生まれの小説家・詩人である。プロレタリア文学を代表する小説家の一人であり(後に転向する)、日本共産党参議院議員も務めた人物だ。

私はこの作家を『文豪とアルケミスト』という、文学者を題材としたゲームから知った。そこでのキャラクターの「彼」は、物腰柔らかで知的な雰囲気の、しかし自己の行為への後悔と葛藤を抱えた人物として造形されている。

私としては、その造形は好ましくもなにか特別な感情を抱かせるには足りないものだった。しかし、実際の中野重治の著作に触れてみると、その作品が持つ味わいにはとても惹かれるものがあった。

それは、ある種の割り切れなさである。何かを正確に記そうとすると、その行為自体に矛盾が生じる。例えばそれは、正確にスケッチをしようとすると、そのものの大きさがいつの間にか狂ってしまうようなものかもしれない。これは技術的な問題だろうか? そうかもしれない。しかしそこにこだわる姿勢、あるいはその問題の根本的な矛盾を考え続ける……私には、それは問題につまづき続ける姿勢にも見える……姿勢には、何か誠実なものが感じられた。

大きなものの歪みを許さない性格、単純でない世界だからこそ単純で朴訥としたものへの確かな信頼、権力やシステムそのものへの疑い、中野の作品に現れるそういったものが、私には親しみやすかったのだ。

 

しかし、率直に言って中野重治の著作は読みやすい方ではない。私もいくつか作品を読み齧ったにすぎない。中野の膨大な蔵書は、見ている分には面白く発見も多かったが、私にはその意味を読み取るほどの知識がなかった。

その道の研究者からすれば、これだけの蔵書がほぼ完全な状態で保存されているのは、まさに宝以上に価値のあることだろうと想像する(しかし、これはただの想像であって実際はどうなのか知らない)。

それよりも、私がこれらを見て率直に感じるのは、中野重治という文学者がこの土地でとても愛されているのだなぁということだ。これだけの著作が行政によってきちんと管理されていることは、それだけで驚くべきことだし、俗っぽく言えばとても幸運なことだ。

著名な文学者の邸宅や蔵書も、費用の捻出が難しく、泣く泣く解体したり手放したりするほかない、という話は多く聞く。しかし、この記念館はよっぽどのアクシデントでもない限り、おそらく何十年後もきちんと管理されているだろうと思われた。それは並大抵のことではない。

 

実に様々のジャンルの本が並んでいる。その背表紙をひとつひとつ眺める。

それら1冊1冊は商品として大量生産されたうちの一つであるが(中には希少本もあるかもしれないが)、中野重治という一人の知識人の所有物であったということが、大きな意味を持つ。それは個人の知識の外部的な記録であると同時に、一つの時代を証言するだけの何かである。

ところで私は、蔵書の中で全集の占める割合が多いことが気になった。いったい何人分の全集を持っているのだ、と思ったくらい、中野重治はたくさんの全集を持っているのだ。いわゆる文学や歴史の研究者ならそれもわかるが、中野は教鞭をとっていたというわけでもなさそうなので、謎である。

個人の趣味なのかな、とも思った。中野は、作品を読むというより、作者を読むというタイプの人だったのかもしれない。

 

帰りに図書館の受付で、『無骨なやさしさ』を買う。これは、丸岡図書館が発行しているオリジナルの中野重治作品集である。ホームページで収録作を見て、これはとピンとくるものがあったので、買うのを楽しみにしていたのだ。

受付の方とお話すると、武生や今庄の言葉とずいぶん雰囲気が違うので驚いた。ごつごつしていて力強く、素朴な感じだ。まさに、中野重治が『素撲(そぼく)ということ』の中で「だいだい僕は世のなかで素撲というものが一番いいものだと思っている」と書いていたことが思い出されて、非常に嬉しかった。

本を買うと、受付の人から「ビデオは見ましたか?」と訊ねられる。私がいいえと答えると、お時間があるならぜひと勧められた。そこで、また記念文庫に戻って係の人にビデオを再生してもらうことになった。せっかく来たんだから、もうちょっとゆっくりしていきなさいと言われているようで、おかしく思いながら中野重治についてのビデオを見た。

 

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丸岡の町は、私が小学生の頃過ごした町を思い出させるものがあった。私が住んでいた町は校区内に団地があって、団地と幼稚園の間に大きな広場があり、鉄道の最寄り駅はないがバスの要所であった。都会ではないが地域で事足りるだけの充足感があり、子供が多く、過ごしやすかったように思う。

時々、地方に行くと廃墟のようだと感じる町に遭遇することがある。それらは人口が少ない町というよりも、急速に人口が減った町である。人そのものがいないことよりも、シャッター街や空き家などといった「かつては人が住んでいた」場所を廃墟と感じるのだ。

丸岡は家も店も多くはないが、街全体に人の営みを感じた。図書館を出た私は、バスセンターへと向かう。ちょうどそういうイベントがあっているのか、定期的なものなのかはわからないが、バスセンター前の広場には出店がたくさん出ていて賑やかである。親子連れが多く、中には子供とおじいさんおばあさんが一緒という組み合わせも多かった。

 

私はバスで「越前竹人形の里」へと向かう。福井県出身の作家である水上勉の『越前竹人形』を読んでいたので、せっかくだからと足を延ばすことにしたのだ。そして、ここに併設されているカフェで昼食にしようという予定だった。

しかし、旅行にはトラブルがつきものだ。なんと、そのカフェは廃止されていたのである。

じゃあ別のところで昼食を、とできないのが地方旅行の悲しさだ。周りにはお店らしきお店もなく、次のバスは1時間後……私はすっかり困ってしまった。

竹人形は精緻な工芸品で、作品は味わい深かったが、どういった人が買うのだろうと不思議でならなかった。縁起物なので、私の知らない筋の人が一定数購入するのかもしれない。しかし、水上勉の傑作『越前竹人形』を読んでいても、1時間も竹人形を鑑賞することは難しかった。

 

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恐竜博物館は、今回の旅の目玉である。知っている人は知っていると思うが、福井駅には恐竜のモニュメントや壁画がたくさんある。福井県内で多く恐竜の化石が発見されていることから、福井は県で恐竜を推しているのだ。

 

恐竜博物館の最寄り駅であり、えちぜん鉄道の終着駅である勝山駅までの車窓は、紅葉が美しかった。えちぜん鉄道の停車駅の半分ほどは無人駅で、2両編成の小さな列車の車内もあまり混んでいない。私はのんびりした気持ちで恐竜博物館へ向かった。

勝山駅から博物館へ向かう道のりでも、恐竜モチーフのものを多く見かける。これは期待できそうだと思う。しかし、いざ博物館についてみると、その人の多さに私は少々げんなりした。

今までの道のりからは考えられないくらいの人出であった。一人で来ているのは、私くらいのものだ。みんなは車で来ているのだとはわかっていても、人込みが苦手な人間としては、嘘でしょと言いたくなってしまった。

 

しかし、世界的な恐竜博物館と言われるだけあって、展示はとても面白かった。

長いエスカレーターを降り、洞窟のような通路を通って階段を上ると……動く恐竜がいる!!

そのインパクトはかなりのもので、みなここで圧倒されるのは間違いない。この恐竜が本当によくできているので、リアルジュラシックパークだ!!とテンションが上がった。

そのあとの展示も、とにかく迫力がすごい。大きいのである。恐竜の骨格標本が実物大で展示してあるのだが、どれも本当に大きく、踏みつぶされそうなのだ。体感で恐竜のサイズ感が味わえ、かなり楽しい。

そのほかにも、実物の恐竜の骨(軽く小学校中学年の身長くらいある)に触れたり、化石のクリーニング作業を間近に見ることができたり、地球考古学の展示(地層や鉱石の展示も豊富)があったりと、とにかく体感型の展示が次から次へと組まれており、飽きることがない。展示の仕方や建物の順路がとても工夫されており、よくできているなぁと感心した。

 

とはいえ、これら恐竜の楽しさの「仕組み」を考えている時点で、どこか私は自分が冷めていることも感じていた。

中野重治記念図書館と恐竜博物館の楽しさは、比べられるものではない。けれども、私が恐竜博物館にどこか物足りなさを覚えていることは事実のようだった。

それはおそらく、その楽しみが能動的であるか受動的であるかの違いなのだろう。そんなことを考えながら、私は混み合う帰りのバスに乗り込み、やれやれと思ったのだった。

 

 

 

明日はいよいよ、楽しみにしていた永平寺観光である。

楽しみであるが、同時に緊張もする。どんなものなのか、そもそもちゃんと参加できるのかわからないということは、私にとって何よりワクワクすることだった。