私が歩くルートは熊野古道の中でももっとも易しく初心者向けと言われる「発心門王子~熊野本宮大社」のコースだ。下りがメインの約7㎞ほどのコースで、所要時間は3時間ほどらしい。
とはいえ、私は日ごろ全く運動をしていない人間なので、実際はどのような道なりになるのかさっぱり見当がつかなかった。体力は持つのか? 道に迷いはしないか? 山で救助を呼ばれる羽目になりはしないか? など、行く前の悩みは尽きなかった。
なので、旅行から帰って来た今、結論を先に言おうと思う。
熊野古道は本当に素晴らしかった! もし熊野に行ってみたいけど迷っている、という方がいるならば、なるべく早く行かれることをおすすめする。少しでも体力があるうちに行っておいた方がいいし、またそれだけの価値がある場所だと私は感じました。
あくまでここで書くのは私の個人的な体験であるが、何かの参考になれれば幸いである。
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私が熊野本宮大社へ向かったのは11月4日、つまり祝日と土日の間に挟まれた平日であった。しかし、発信門王子に向かうバスはなかなかの乗車率である。みな山歩きらしい出で立ちをして、年齢層も若い人からお年寄りまでさまざまだ。ただ、端々に耳にする言葉のイントネーションから、関西圏の人が多いらしいことはなんとなくわかった。
熊野古道は、熊野本宮大社につながる和歌山・三重・奈良の参詣道の呼称である。田辺から熊野本宮に向かう中辺路(なかへち)、田辺から海岸線沿いに那智・新宮へ向かう大辺路(おおへち)、高野山から熊野本宮へ向かう小辺路(こへち)が、「熊野参詣道」として世界遺産に登録されており、古代から中世にかけて、そして今も多くの人々が神社へ参詣しているそうだ。(熊野古道ホームページ参照)
発心門王子~熊野本宮大社のルートは、このうちの中辺路の一部にあたる。新宮駅からだと、バスで一度熊野大社まで行ってから、さらにバスで発心門王子まで20分ほどだ。ここから歩いて熊野大社まで戻って来るというわけである。
バスに揺られてたどり着いた先は、木漏れ日の差す山間という感じだった。どやどやとバスから人が降り、私もスニーカーを履いた足を下ろす。すると、そこからはもう観光客でなくて、一人の人間になったような気持ちになった。森がすべての音を吸い込んで、人々の姿をばらばらにする。私はそんな前を行く人たちの背中についていくようにして、発心門王子の社へと向かった。
発心門王子は、歩きやすいように整備されつつも、どこか太古の昔の面影が感じられる気がする場所だった。朝の光を受けた社と鳥居がすがすがしい。
近くの立て看板の説明を読むと、後鳥羽上皇の熊野御幸に藤原定家も随行し、ここで漢詩や歌を詠んだのだそうだ。それらの歌碑もカメラに収めると、私はようやく古道を歩き始めることにした。
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道に迷わないかがもっとも心配であったが、なんとなく道なりに歩いていけば大丈夫だということがわかってくる。間違った分かれ道に入ると、「ここは熊野古道ではありません」という看板が立っているのだ。親切である。そのことを知ると、張っていた気が少し緩んで、周りを見渡す余裕が出てきた。
この日は穏やかな快晴で、まさに山歩きにはうってつけだった。山の空気は澄んで、いつしか私はてくてくと一人歩きを楽しむようになる。今まさに、自分があの熊野古道を歩いているのだという高揚に包まれ、心まではるばるとした。
ただ、一度だけ本当にヒヤッとしたことがあった。歩いていて暑くなってきたので、上着を脱ぎながら歩いているまさにその時、自分の足が大きな蛇をまたごうとしていることに気が付いたのである。道の真ん中を横断するように蛇がいたのに、まったく気が付かなかった。怖かった……踏まなくて本当によかった……。
さて、そうやって歩いていると、後ろから壮年男性の2人組が私を追い越してきた。年齢は50前後くらいだろうか。追い越し際、彼らに「こんにちは」と声をかけられたので、私も「こんにちは」とあいさつを返す。
私よりも彼らの方が足が速いので、そのまま彼らは行ってしまうものと思っていた。しかし、意外にも片方の人が私に話しかけてきた。
「一人ですか?」
「一人です」
「すごいね」
話しかけてきた人は、胡麻塩頭で目がくりくりして、睫毛が濃い。元気で愛嬌があり、いかにも人と話すのが好きそうだ。逆に、もう一人の人は背が高く眼鏡をかけていて、ちょっとインテリ、あるいは知的な商社マンという感じである。私はこの対照的な二人組を興味深く眺めた。
「熊野古道は初めて?」
「はい」
「すごいね、ここ一人で来ようと思ったの」
「だいたいいつも一人旅なので。そちらはお二人で?」
「俺とこいつは大阪の関空で待ち合わせして、昨日は車で高野山に行ったの。そのあと白浜の温泉に泊まって、今日は熊野」
いい日程だな、と思った。高野山のあとに熊野というスケジュールは私も憧れだが今回は叶わなかったので、高野山いいですね、と言う。すると、もう片方の人の方が初めて口を開いた。
「すごくよかったですよ。一度は行く価値がありますよ」
私はその後に続く言葉を待ったが、彼はそれ以上を語らなかった。頭の良さそうな人だから、きっと話そうと思えばいくらでも話せたことだろう。しかも、相手はずっと年下の、いかにも凡庸そうな女なのである。しかし、そこで口を閉じたところに、私は彼の節度を感じた。
話していて驚いたのは、話しかけてきた人が福岡の人だとわかった時だった。私も福岡からだと言うと、二人も顔を見合わせて驚いていた。関西圏の人は、イントネーションですぐにわかる。ここに来るまでに周りの言葉を聞いていただけに、私たちはここで九州の人間と会える確率がかなり少ないことがわかっていたのだ。
「わー、福岡から電車で来たのすごいなぁ」
「いや、車が運転できるなら車移動がいいと思います。大変なので…」
「明日はどこに行く予定?」
「那智の滝に行きます」
彼らは再度、顔を見合わせる。なんと、彼らも明日、那智の滝へ行く予定だとのことだ。
「運が良ければ、明日も会えるかもしれないね」
「会えたらすごいですね」
面白いめぐり合わせだなぁと思った。もし本当に会えたらと思うが、そう都合よく行くはずがない。この時、私はそう思っていた。
私は彼らとの会話は最小限に留めた。とても感じのいい二人組だったし、話していて全く嫌な感じはしなかった。むしろ、彼らが年下の女性に対してやたら自慢したり、あるいは「教えてあげる」といった体で知識を披露しないことに、私はとても感心していた。
しかし、それはそれとして私はわざと歩くスピードを上げなかった。そして、二人はそれに気が付いたらしい。私に話しかけてきた胡麻塩頭の人の方が、さっぱりした元気な口調でこう言った。
「じゃ、我々は先を急ぐ!」
もう一人の人も私に目礼をする。私も挨拶を返すと、彼らはすーっと先を歩いて行った。とても自然だった。
わー、なんていい人たちなんだろう。私は思った。彼らは私の意図をちゃんとわかって、私に気を使って、そして礼儀正しく去って行ってくれたのだ。ありがとう。ありがとう。私は彼らの後ろ姿を見つめながら、静かに感動していた。
もし私が男だったら、彼らと一緒に歩いたかもしれない。しかし、やっぱり女だったので、そして私はその女という役割をどうしても意識してしまうので、彼らとは歩かない方がいいと思ったのだ。私の「女・年下・一人」という属性が、彼らと対等に話をさせるのを難しくさせていたのだ(例えば、ここで私が彼らよりも年上だったら、あるいは私も女友達と一緒だったら、彼らと一緒に歩いたかもしれないな、と思う)。
しかしそのことは私を悲しくさせたのではなく、彼らの親切に私は感動したのだった。話すよりも別れることに親切を感じることがあることを、この時私は初めて体験した。
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さて、最初のうちは熊野古道も穏やかな里山といった風で、民家がすぐそばにある道を歩くことも多かった。しかし、道を進むにつれてどんどん道のりが険しくなる。一応舗装はされているものの、雨の時には明らかに歩かないほうがいいと思われる山道や、獣道と見まがうような道もあった。アップダウンもなかなか激しく、歩きながら息が上がることもしばしばだ。
途中、何組かお年寄りの方を追い越した。私が後ろからやってくるのがわかると、足場の悪い中、みな親切に道を開けてくれる。すみませんと詫びを入れつつ、私はこの人たちは熊野古道を歩ききれるのかしら、とちょっと心配になった。運動不足とはいえ、30代の私がかなりハードだなぁと思うような道のりである。無理だと思ったら早めに切り上げて、どうにか無事に帰ってほしいなと思う。本当に、それくらいの山道だったのだ。
実は私は、熊野古道を歩いている時に、山伏さん(修験道の道者さん)に会えたりしないかな、とちょっと期待していた。熊野と言えば、山岳信仰の場である。今も山伏の人が修行をしているのを垣間見られたら、「本当にいるんだ…!」と思えていいな、と思っていたのだ(低俗な理由で本当にすみません)。
しかしこの日、そして翌日も山伏さんに会うことはできなかった。当たり前である。だが、もしこの熊野古道ですいすいと山道を登っている人を見たら、そしてその人が山伏の格好をしていたら、天狗だと思うだろうなぁということを自然と考えた。
古代の息吹を感じる森の中、はぁはぁと自分の呼吸だけを聞きながら山道を歩きつつふと目を上げると、高下駄を履いた人の後ろ姿が目に入る。その人は大きな木の根も崖にへばりついた岩も軽々と登っていくので、私はびっくりしてしまう。まるで背中に羽が生えているようだ……と思っていると、くるりとその人が振り向いた。山伏だと思っていたその顔は真っ赤で、しかもにゅっと大きな鼻が突き出している!!
……というシチュエーションがとても自然に思えてくる。「天狗」という存在が生まれた理由が、すんなりと理解できるように思えたのだった。
そうやって一時間半も山道を歩いていると、足がガクガクになってしまった。まだ半分なのにどうなることやら、と思うが、歩くしかない。
しかし、挫けそうになってもここは熊野である。途中、古道の要所の由来を説明する立て看板があったり、和泉式部の歌碑があったり(晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき)して、その度に立ち止まることができ、ああ~いいな~と思う。
平安貴族たち、そして数々の上皇や院もこの道を歩いたのだと思うと、やはり感慨深かった。平安貴族はなよなよしているイメージしかないが、この道を歩き通せるならば実際はかなり強かったのでは……と思った。
そうやって歩きに歩き、2時間半を少し過ぎたくらいで熊野本宮大社にたどり着くことができた。たどり着いた頃には、もう膝が笑っていた。本宮大社にお参りしたら、早く帰ろうと思った。
しかし、本屋には寄った。というのは、なんと熊野本宮大社のすぐ近くに、古本屋さんがあるからだ。なかなか面白いランナップで素敵な古本屋さんだったが、ここで会ったが百年目!という本には出会わなかったので、文庫本を一冊だけ買って出た。もっと体力に余裕があれば、また印象が違ったかもしれない。私が運動不足なばかりに申し訳ない。
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最後に、熊野本宮大社のことを書いておこう。
熊野三山の中心であり、全国の熊野神社の総本宮である熊野本宮大社の本殿は、本当にさっぱりとしていて余計なものが一切なかった。重厚な渋色の檜皮葺の社殿と真っ白な玉砂利の対比が美しく、撮影は一切禁止。参拝者は粛々と参拝して、そそくさと本殿の敷地を出る。ああ、やっぱりトップはこうなのだな、と思うような徹底ぶりが心地よかった。
しかし、本殿の敷地を出るとあちこちから大げさな文言が目に入ってきて、私は閉口した。「熊野の山・海より差し昇る 太陽を背にして 新たなる一歩」「神を父 仏を母にいただき 熊野より興さむ 出発の時」「今! 蘇りの時 皆様の努力で 希望の光の始まり 祈りと共に!」…このような文句は、いったい誰が考えているのだろう。文字が目に入るたびに、国旗掲揚的な文句ではないかとハラハラしてしまった(が、そのような文句はなかった。よかった)。
山を下ると、あたりはちょうどお昼時、いい感じに人出も多い。最後にやや気まずい思いをしたものの、熊野古道は本当に古代の息吹が感じられて素晴らしかったし、面白かった。いい出会いもあって何よりである。
私はお昼ご飯を食べて、それからのんびり新宮の町へ帰った。帰りのバスでは、ぽかぽかと日差しが温かかった。