毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

熊野から遠く離れて(後編) ―和歌山旅行3泊4日の覚書―

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熊野3日目は、まず那智大社へ向かった。那智といえば、有名なのは那智の滝である。滝がご神体とはどういうことなのだろう? ぜひ一度見てみたいと思っていたので、この日も朝から楽しみであった。

新宮駅から列車で那智駅へ向かう。那智駅からさらにバスに乗り、熊野古道の大門坂で降りた。この日もいいお天気で、空が青い。ぱらぱらと坂を上る人たちに続くように、私も坂を上る。

コンクリートで舗装されているが、けっこうな急坂であるので、昨日熊野古道を歩いた体にはこたえる。実は、バスにそのまま乗っていればまっすぐ那智の滝まで行くことができたので、私は早くも、これは間違った選択だったかなと思い始めていた。

 

 

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大門坂の標識がある場所を過ぎてすぐ、木の立て札に書いてあることにおやっと思い立ち止まった。「南方熊楠が三年間滞在した大阪屋旅館跡」とあったからだ。

南方熊楠は、和歌山県和歌山市出身の粘菌研究者として著名な人物である。夏目漱石らと同じ年(1867年、慶応3年)の生まれで、粘菌のほかにもキノコ、藻類、コケ、シダなどいろいろな研究をしていたそうだ。その人が投宿していた跡地にこうして看板が立っているのは面白いな、と思った。

 

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さて、大門坂の入り口は大木が頭を寄せ合うようになっていて、まるで異世界への入り口のようだった。そしてそこをくぐってみると……私は目の前の光景に頭を抱えた。石を積み上げた急な階段が続いていたからである。

実は、私の中では昨日の中辺路が熊野古道のハイライトのつもりだったのだ。大門坂については特に下調べをしておらず、ただ人もたくさん降りてるし、なんとなくつられるようにバスを降りてしまったのである。

なので、目の前を圧倒する石段に絶句してしまったのだった。

 

 

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けれど、バスを降りてしまったので進むしかない。大きな木々で影になった石段を上がる。視界のずっと上の方まで階段は続いており、その両脇にはおそらく樹齢百年レベルであろう巨木がそびえたっている。壮観であったが、自分がこれを一歩一歩登るのかと考えると、道を引き返そうかしらとまで思った。

しかし、意を決して登ることにした。えっちらおっちら体を持ち上げる運動に、たちまち息が上がる。昨日の山道もたいがいであったが、これは昨日の比ではない。すぐに全身に汗が噴き出てくる。

どうにか階段を登り切った時には、汗びしょびしょになってしまっていた。直線距離は600mほどしかないそうだが、体感的には昨日の中辺路の方がまだ楽だった。階段の上から見下ろすと、眼下に急な階段が続いているのがわかる。よく登った。しかし、ここで終わりだと思った私は甘かった。

なんと、那智大社まではさらに階段を登らなければならなかったのだ。私は内心泣き言を言いながら登っていたが、途中、那智大社からの帰りらしいある家族連れとすれ違って、そのお父さんの言葉がとてもよかった。

お母さんや子供たちは「思ったよりしんどかったね」「ここどこ?」「お腹空いた」などと言っていたのだが、彼は「本当に来てよかったよ。感動した」と言っていたのである。家族の人たちはその言葉に無関心なようだったが、それだけに、その人の言葉が本音だと感じられて、私はへぇーと思った。

那智大社までの道のりには、那智黒石のお店がたくさんあった。普通のお土産屋さんにも、那智黒石でできた碁石や硯が並んでいる。本当にこの地域でしか取れない特産品なのだろう。

 

 

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そうやってようようたどり着いた那智大社は、やはり感慨深かった。熊野速玉大社、熊野本宮大社、とめぐってきて、私が最後にたどり着いた熊野三社の最後が那智大社である。

私がこの神社から受けた印象は、とてもすがすがしいものだった。あれだけの階段を自力で登って来たせいもあるだろう。しかし、熊野速玉大社、熊野本宮大社で感じたわざとらしさや大仰さをこの神社ではあまり感じず、とても清浄な印象を受けたのだ。高台にあって交通の便もよくなく、ちょっと俗世間から離れた感じが私の好みにも合致していたのだと思う。

ここの八咫烏の焼き物がとても可愛かったので、私はそれをお土産に買うことにする。小さくて丸いフォルムで、目がきょろっとしている。おみくじを咥えていてかわいい。大切にリュックの中へ入れた。

その後、那智大社の隣にある青岸渡寺へ向かった。ここの本堂は南紀州最古だそうで、木造建築の荘厳さが素晴らしかった。私は那智大社にも青岸渡寺にも満足して寺社を出る。視界が開け青空が美しい。さて、次は…と思いながらてくてく歩いていると、山間の向こうに一本の滝が見えた。

おや? もしかして……

引きよせられるように広場の端の方へ歩いて行って、手すりに手をかける。晴れ渡った空の下で流れるそれは、まさに一本の白糸のようだ。あれが那智の滝? わ……本当にまっ白できれい……。

自然の滝なのだが、その造形があまりに整っているのでちょっとびっくりしてしまう。富士山を見た時も、私は同じようなことを思った。これがある種の神秘性や信仰心を人びとの心にもたらすのもわかる気がする。乱れがなさすぎるのだ。

この位置からだと、滝と一緒に赤い三重塔が撮れて特に美しい。写真映えするので、私は何枚も写真を撮った。この日、晴れて本当によかったと思う。

しかし、ここからがまた大変だった。すぐ近くに滝が見えているのに、また急な階段を降りて林(?)の中に入り、また石段を登らなければならなかったのだ。すでに足はガクガクである。なのに、全然滝は近づかない。

周囲では、急な足場で若い女性や子供などが気を配られながら、そうっと上り下りをしていた。なるほど、だから那智の滝直行のバスも出ていたのだな、と今なら思う。お年寄りの方は、無理せずバスでまっすぐ滝を見に行った方がいいだろう。下手をすると本当に怪我をしてしまいかねない。

 

そうやって、ようやく私は滝の真下までやってきた。大きな滝は、その音がすさまじい。遠くから見ると美しい白糸のようだった那智の滝も、たいへんな水量で轟音を響かせている。

周囲には観光客もたくさんいて、神秘的な風情は特になかった。しかし、滝の柵の手前まで行くと、こちらまで細かい水しぶきが飛んでくる。それを浴びて、なんだか私は嬉しくなった。いつか見られたらと思っていた那智の滝を、ここまで来て間近に見ることができたのだ。

さて、ここからはもう帰るだけである。しかし、この帰り道でまた面白いことが起こった。那智の滝の参道を戻って道路まで出たところで、昨日熊野古道で少しだけ一緒に歩いた男性二人組に、また出会ったのである。

誰かこっちを見ている人がいるな、と思ったら、その人が昨日の親しみやすい胡麻塩頭の男性だった。私が気づいたことに向こうも気づくと、私たちは自然とまた声を掛け合う。もう一人の背の高い男性も一緒だ。

「いや、本当に会えるとは思わんかった」

「ほんとですね。すごい確率ですね」

「もう滝は見た?」

「はい」

「俺たちは今来たとこ」

「私は那智大社も見て、これから帰るとこです」

「大門坂行った?」

「行きました」

聞けば、彼らはこれから滝を見て那智大社にお参りし、それから勝浦の方へ行く予定だという。勝浦といえば、まぐろの水揚げで有名な漁港である。昼食は海の幸を堪能するのだろう。相変わらずセンスがいいなぁと思いながら、私は彼らの話を楽しく聞いた。

「またお会いできてよかったです」

「こっちこそ。いやぁ、ほんとびっくりしたわ」

お互いの旅運を喜び合いながら、私たちは別れた。不思議なことだが、なぜか旅先ではこういう偶然が時々起こるものなのだ。

 

 ***

 

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新宮市に帰ってきてから、私はどうしても行っておかなければという最後の場所へ向かった。中上健次の資料室である。

中上健次は、1946年(昭和21年)和歌山県新宮市生まれの作家。戦後生まれ初の芥川賞受賞者で、紀伊半島を舞台とし故郷の被差別地域を「路地」と呼んで、数々の作品を執筆した。血と暴力とエロスが交錯するその独特の土着的な作品群は、今も多くの読者に支持されている。

私は中上作品の愛読者とは言えないが、熊野といえばやはり外すことができない作家だろう。丹鶴ホールという建物の4階にある新宮市立図書館内の一画が、中上健次のコーナーになっているらしいので、行ってみたいと思っていたのだ。

 

特に愛読しているわけでもない作家の文学館や展示室に行くことをどう思うかは、人それぞれだと思う。ただ、実際にその土地でその作家の文章を読むとはっとすることは多い。

特に中上健次の作品群は故郷と強い結びつきがあり、その作品を語る上でほとんど熊野のことは切り離せないほどであるらしい。

例えば、中上がその晩年に創設した「熊野大学」の檄文を読んでみるだけでも、それは伝わると思う。(熊野大学 資料室 「設立者・中上健次の言葉」より引用。こちらで解説も読めます)

 もうがまんならないところに来ているのが、熊野の人間の本音ではあるまいか。黒潮の波の豊かさに魅かれ、この熊野の地に遠つ祖が拠を定めたのは何千年前か。神を畏れ、仏をうやまい、日々清く生きてきた。それがこの有様だ。

 汽車がこの間全通したと思ったら、いつの間にか、本数が減った。熊野に<近代>は一番遅くやって来て、一番早く去っていくという事なのか。それなら<近代>が打ち壊した山を返せ。原っぱを返せ。熊野川のあの川原の黒い砂利を返せ。人の情をかえせ。魂をかえせ。

 熊野。ここで子宮を蹴って日を浴びた俺も四十。空念仏は要らない。ここが豊かで魂の安らぎと充溢の場所とする為なら立つ。本宮、那智、速玉、三山の僧(氏子)兵とも、水軍(海賊)ともなって、山、海をゆき、熊野を害する者(物)らと戦おう。

 

実際に丹鶴ホール内4階に行ってみると、隣を流れる熊野川の姿が見下ろせるとてもいい図書館だった。まだ建ったばかりの新しい建物で、館内はぴかぴか、壁には郷土の偉人たちの写真が大きくレイアウトされておりかっこいい。佐藤春夫大逆事件に関連する本など、新宮ならではのテーマで作られた棚もあり、とてもよかった。

 

中上健次の資料室は、思ったよりも大きなスペースを取ってあった。生原稿や貴重な資料が展示されているほか、書斎の一部が再現されていてとても見ごたえがある。ファンなら垂涎ものだろう。

しかし、私がこの時見て一番よかったなと感じたのは、中上本人が語っているビデオメッセージだった。資料室の壁面に置かれた画面で映像が流しっぱしになっており、誰でも見ることができる。

これは熊野大学で実際に使われたものだそうだ。主として、中国の詩人・陶淵明の「形影神」のことを語りつつ、中上が熊野について、ある種の自己対話をしている内容だった。

正直なところ、私は中上の荒っぽい文壇エピソードのイメージが強くあったので、この映像での中上健次の語り口を大変意外に感じた。画面の中の彼はとても落ち着いていて、内省的に見えたのだ。

中上健次は、1992年に46歳の若さで亡くなる。死因は腎臓癌である。熊野大学が開設されたのは、1989年。このビデオが撮影された時には、中上にはもう死が見えていたのかもしれない。

 

 ***

 

時間が少し余ったので、私はその後、王子ヶ浜へ向かった。電車の中で見たあのダイナミックな白波を、どうしても間近に見たかったからだ。

バスから降りて実際に浜に出てみると、そのスケールは想像以上だった。波音がとても大きい。波そのものも、私が普段知っているものとは全く違う。大きな波が浜に打ち寄せて、それが砕けるので泡立って白く見えるのだ。

しかし、空の向こうまで続く海はとても青く、少し緑かがっている。やっぱり太平洋の海だなぁと思った。

浜には遠くに女性が座り込んでいるのが見えるだけで、ほかに誰もいない。大きな波の音が耳を聾しているので、それ以外何も聞こえない。世界はとても明るいのに時間が止まっているようで、不思議な気分だった。

 

 ***

 

こうして、私の和歌山・熊野旅行は終わった。熊野から遠く離れて、半年以上前のことを思い返しつつ、今どうにか旅行記を終えることができた。

旅先から帰るとき、私はいつもさみしい。空虚な気持ちになる。家に帰ってきても、まったくホッとしない。しかし、次の旅があるということで、どうにか現実を保っているような気持ちだ。

旅の記憶は私にとって、夢を反芻することではなく、今の夢を生き延びるようなものなのかもしれない。熊野はとても遠かった。できれば次の旅では、もっともっと、遠くへ行きたいなと思う。