毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

宗教はなぜ悪いイメージなのか ——S・モーム『月と六ペンス』から反論を試みる

 

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いろんな版が出ているけど、新潮文庫の紺×ライトグリーンがモームのスタンダードなイメージ


去年、ある読書会で遠藤周作がとても好きな人とお会いして、以後何度かお話する機会があった。その方の話は大変面白く、私はとても感銘を受けた。

その人のどこに感銘を受けたかと言うと、いろいろな点があげられる。しかしここではその人が「宗教について真摯に語った」ことに焦点を絞って考えてみたいと思う。

 

遠藤周作と言えば、キリスト教文学を書き続けた作家である。自然、その方の話も宗教的な話題になる。

しかし、その人の宗教についての語り口がとても真摯で、揶揄が含まれていないことに、私は感動したのだった。

 

現代日本で比喩として「宗教」が使われる場合、それはどのような意味合いとなるだろう?

「宗教的だ」「まるで宗教のようだ」という言葉を例にしてみよう。すると、宗教という言葉が、いかにマイナスのイメージで捉えられているかわかる。

それはほとんど「眉唾物だ」「盲目的だ」「非論理的だ」「理性を欠いている」というような意味としてとらえられる。話が通じず、とてもやっかいで、さらに言えば「迷惑だ」という意味合いさえ含んでいるように感じられる。

無意識のうちに、私たちは「宗教とは信用ならないものだ」という前提で話をしなければならないようにさえ感じているのだ。

 

しかし、遠藤周作の話をする時、その人の話ぶりにはそんな意味合いが全然見られなかった。私は、そこがとても新鮮に感じられたのである。

また、それは同時に、現代日本において、いかに「信仰」というものを語ることが難しいか、ということを私に考えさせた。

 

 

私自身も宗教に偏見を持っている一人である。

サマセット・モームの『月と六ペンス』(中野好夫・訳)を読んでいる時に、以下のような文章があったことを思い出す。

「そりゃそうだろう。だが、そのほかにもう一つ、それがなければ絶対に何もできないというものが一つある」

「それはまた、何ですかねえ?」

(略)

「信仰だ、神への信仰だよ。これがなかったら、私たちの一生はだめだったろうと思うね」

これを読んだ時、私は「モームでさえも、そう思っているのか!」とびっくりしたのだ。これはつまり、「(私が信頼している)モームでさえも、(信仰をそんなに大事なものだと)思っているのか!」というわけで、その偏見のほどがうかがえる。

 

サマセット・モームは、私が掛け値なしに素晴らしいと思う作家のひとりで、小説以外の文章にも信頼を置いている人だ。

皮肉屋でありながら自己の偏見に大変自覚的な人で、しかもそれをとても平易な文章でわかりやすく書いてくれる。これを「憎らしいほど冷静な文章を書く」人だと表現すれば、少しはその素晴らしさが伝わるだろうか?

 

『月と六ペンス』はそんなモームの代表作、というか、世間にもっともよく知られている作品である。

画家のゴーギャンがモデルとも言われる「ストリックランド」という人物についての話で、彼は妻子を捨てて家を飛び出した挙句、芸術的創造欲のために友人の愛妻を奪い、さらにその女を自殺させ、タヒチへと逃れる(新潮文庫のあらすじより省略して抜粋)。

ストリックランドに合理的に話をしようとしても、通じない。彼は家庭を捨て、女を見殺しにし、病気になり、大壁画を完成させるも、それに自ら火を放つ。その理由は誰にもわからない。

 

モームが描くテーマのひとつとして、「人間は全く首尾一貫していない」ということがあげられるらしい。人間はまったく合理的でなく、矛盾の塊であり、他者にそれは理解できるものではない、と。

 

私は考えてみる。モームほど冷静な観察眼の持ち主が、信仰のことを「それがなければ絶対に何もできない」とまで(作品の中であるとはいえ)書いたのはなぜなのだろう。

そして、これに私が出した答えはこうだ。モームはこう言いたいのではないか? 「人間は絶対的な存在ではない。しかし、それはなんら恥ずかしいものではない」

 

これは一神教的な考え方だと思う。ここで私が想像する「神」は絶対的に完全なものであるからだ。

そんな唯一完全の「神」と比較して、「人間」は常に不完全である、という論理をモームは持っているのではないか、と私は考えた。

 

そして、そう考えると納得することがひとつある。海外で(というのは非常に大雑把な言い方だが)「無宗教だ」と言うと、不信感を持たれるという。それはこのせいなのではないか?

 

つまり、

無宗教=自らの不完全さに無自覚=自らの欠点・悪行に無自覚=自らを顧みる視点がない

という図式である。自分を「できる」と思っている人間ほど、やっかいな人間はいない。「無宗教」というのは、自己をきちんと捉えられていない人、と受け取られるのではないか?

 

宗教は盲目的なものではなく、むしろ、本来は自己を顧みるためのものかもしれない。現代日本において、真逆の意味でとらえられ使用されているのは皮肉である。

 

 

サマセット・モームで、私が特に好きで心掛けている言葉がある。

ある小説を読んで楽しく思えないならば、その作品は、その読者に関する限り、何の価値も持たない。(略)だが、その一方(略)読者のほうでは自分自身をある程度差し出すことができないというのであれば、小説を読んでも、その作品が与えてくれる最善のものを得ることはできるわけがない。そしてもし自分自身を差し出すことができないというなら、小説などぜんぜん読もうとしないがよろしい。作り物の話を読まねばならぬ義務など、どこにもないのである。 

――『世界の十大小説』(西川正身・訳)

この物言い、なんとも痛快だと思う。とてもまっとうな理屈である。

今回、モームの言う「信仰」がどういう意味か考えてみたけれど、実際のところ、彼の宗教観はどのようなものなのだろうなぁ。