毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

創作の耐えられない軽さ

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映画『エンドレス・ポエトリー』より

エンドレス・ポエトリー』という映画を観て驚いたのは、どこへ行っても詩人が大歓迎されていたことだ。作中では様々なタイプの芸術家が登場するが、主人公が「あなたは?」と問われて「僕は詩人です!」と答えると、周りは「素晴らしい!」と大騒ぎする。

詩人! 詩人ですって! 素敵だ!

こういう世界があるのだなぁ、と私は素直に感動した。ホドロフスキー監督の作品世界が独特であることを差し引いても、詩人がこのように大歓迎される世界があるなんて、私はこれまで想像できなかったのだ。

 

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現代において、自分の趣味を「創作活動です」と公言できることは、まずない。

少なくとも、会社員になろうとして就職活動をしている面接中に、「趣味は?」と聞かれて「詩を書くことです」と答える人は、まずいないだろう。

「絵を描くことです」ならばどうか? 詩と比べれば相当ハードルは下がるが、それでもやはり言いにくいことに変わりない気がする。

では、社会でとは言わずとも、友人や家族の間ではどうか? プライベートな人間関係において、それらの趣味を言うことは自然なことだろうか?

やはり、これも相当親しい間柄でないと難しいように思う。

 

つまり、「自分で何かを創り出しています」ということは、現代社会では隠すべきとまではいかなくても、あまり表に出すべきものではないらしい。

これは別に、恥ずかしい作品を作っているわけでなくとも、そうらしいのだ。小説や漫画は明確なストーリーがあり、どうしてもそこに自意識が露呈しやすい。しかし、例えば絵画ならどうか? あるいは、音楽ならばどうか? いわゆる歌詞のないインストロメンタルならば、作品から自意識が読み取られることはないのではないか?

 ……逆に考えてみよう。もし、自分が「あなたの趣味は何ですか?」と尋ねて、相手から「作曲です」という答えが返ってきたら。私は驚くと思う。驚いて、それから? ちょっと警戒するだろう。相手の出方をうかがうような気がする。

やはり、「創作する」という行為、それも特にオリジナルなものを創り出すという行為そのものが、何か腫れ物に触るような感覚を呼び起こすらしい。それはなぜなのだろうか?

 

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映画『イエスタデイ』より


ある日、友人のKちゃんから、映画の『イエスタデイ』を観たが、不満を抱いたという話を聞いた。

この映画は、なぜかザ・ビートルズが全く知られていない世界へ来てしまった主人公が、ビートルズの歌を発表して有名になっていくというものらしい。

Kちゃんいわく、主人公がビートルズの歌を発表する部分が納得できないとのこと。そこに葛藤が見られないのが気になってしまうのだそうだ。

 

これは、主人公がビートルズの曲をパクっていることに罪悪感を覚えていないのがけしからん、という意味ではないのだという。

Kちゃんは言う。

「この主人公のオリジナリティはどこにあるの? 彼はなんのために音楽をやってるの?」

 

彼女の言いたいことを、私はわかったと思った。

おそらく、Kちゃんの中では、創作はアイデンティティと密接に結びついているのだ。そしてそれは、私も同じだ。「わざわざ」自分で音楽を創り出している人間には、それなりの理由がないと納得できないのだ。

彼が何を表現したいのか、何のために音楽をやってきたのか、それが伝わってこなかったことに、Kちゃんはもやもやしたのだろう。主人公が発表するのが、世界でもっとも有名なバンドのザ・ビートルズの曲だろうと関係がない。主人公の創るものがどれだけ稚拙だろうと、そこにビートルズとの優劣はないのである。

ビートルズの曲を自分のものとして発表して、主人公は本当に満足できるのか? それで自身の創作への思いは満たされるのか? このような疑問を、Kちゃんは抱いたのだと私は推測した。ちなみに、Kちゃんは演劇をやっている人である。

 

 

しかし、この映画を観てこのように感じる人間は少数派だと思う。むしろ、「あの」ビートルズの作品を自分なんかが発表してよいのか……と悩む人が多数なのだろう。

逆に言えば、主人公にオリジナリティを求めるのは、創作に自らのアイデンティティを求めている人間だということができるかもしれない。

 

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おそらく、一般的に創作活動を公にしないほうがよい、とされているのもこの部分が大きいのだろうと推測できる。

思春期にこっそりノートにポエムを書くことは、たいていの場合、人に「恥ずかしい」という感覚を引き起こす。もしかしたら、その詩は芸術的な価値のあるものかもしれない。しかし、その確率はとてつもなく低いことが、私たちにはわかる。

他者と自己の違いに葛藤し、自らのアイデンティティを見失いがちな思春期において、それらの言葉は自己の唯一性を探る意味合いを持っている。もし、その詩がとてつもなく陳腐なものだとしても、その詩を作れるのは自分しかいないのだ。そういう意味で、芸術は常に唯一のものなのである。

 

しかし、社会に出ると、それらの唯一性はほとんど不必要だということがわかる。

会社で求められるのは、業務に応じた能力であり、自分の代わりはいくらでもいるのだということがわかる。また、そうでないと社会が回らないということもわかる。

そのような世界において、誰かが「自分しかできないことをやりたい」というのは、端的に言って場違いであり、迷惑なのだ。

このことから、創作=自分はオリジナルだという意識=社会では迷惑なもの、という図式が できあがる。一言で言えば、協調性がない、自意識が強い、と思われやすい。そんなことを思われるくらいなら、それは表に出さないほうが賢いという選択になる。

けれど、どうしてそんな風に自己を偽らなければならないのだろう、とも私は思う。

 

 ***

 

私たちは社会的な営みの中で生活している。働くという行為は、その中で大きな比重を占めている。

しかし、ここまで考えてきて思うのは、それら社会的な営みとプライベートな営みがあまりきちんと分かれていないのではないか、ということだ。むしろ、プライベートな部分に社会的役割が侵食してきている。創作活動で収入を得ているなら話は違ってくるかもしれないが、そうでなければ、それらは住み分けができるはずのものだと思う。趣味と仕事には何の関係もないからだ。

それならば、会社で趣味を訊かれたときに「詩を書くことです」と答えてもいいはずではないか? それは「料理です」「テニスです」「旅行です」と言うことと変わらないはずだからだ。 

 

逆に言えば、これは仕事をしている時はプライベートなことを持ち込むべきではない、ということなのだろう。当たり前のようだが、それができていない会社や人は多い。

私のしている仕事も、業務に創造性やアイデンティティは必要ない。私はその場で必要とされることや、業務の効率化などという求めに応じて自分の役割を果たさなければならない。

それがきちんとできると証明できれば、たとえば趣味を創作だと公言することも可能なのではないか? 仕事をきっちりこなしつつ、創作を続けていく人が増えていけば、社会の目も変わっていくことだろう。

 

問題は、アイデンティティが不安定な人が創作をする傾向にあり、そういう人はそもそも会社で働くのに向いていないことが多い、ということだ。

アイデンティティの葛藤を抱えたまま大人になる人は、どれくらいいるのだろう? 「自分探し」という言葉が陳腐なものとしかとらえられないように、アイデンティティの模索も陳腐なものとしか受け取られないのだろうか。

しかし、ある種の人にとっては、それは常にとても現実的な問題なのだ。だからこそ、私たちは創り続けるのだと思う。