毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

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ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

  • 作者:カミュ
  • 発売日: 1969/10/30
  • メディア: ペーパーバック
 

 コロナウイルスの大流行により、世界中でカミュの『ペスト』が読まれているらしい。

 

私はこの作品を読んでいないのだが、あらすじを見てとても興味を引かれた。

「疫病の大流行」という異常で理不尽な状態が、まさに今の私たちの現実と重なることは想像がつくからだ。

普通ならばその異常な状態に私たちの方が入っていかなければならないが、今の状況だと、私たちがその世界に入ろうとせずとも、時刻や場所をスライドさせるだけでよい。実感としてわかること、同じだと感じること、異なると感じること、それを味わうだけでもとても面白い読書になると思う。 

コレラの時代の愛

コレラの時代の愛

 
復活の日 (角川文庫)

復活の日 (角川文庫)

  • 作者:小松 左京
  • 発売日: 2018/08/24
  • メディア: 文庫
 

同じような理由で、『コレラの時代の愛』(ガブリエル・ガルシア=マルケス)や、『復活の日』(小松左京)なども今読まれているらしい。前者はコレラ流行の時代を背景とした恋愛小説であり、後者はウイルスの脅威による人類の危機を描いたSF作品である。

 

コロナウイルスの影響で、多くの人がストレスを抱えている。

何より不安なのは、「これからどうなるのかわからない」ということだと思う。未知の状況で自分の感情を表明するのは疲れる。うかつなことは言えないし、誰だって人を傷つけたくはない。

そんな中、「本当は」人はこんな状況で何を思うのだろう? ということを、文学の中に求めてみるのもいいのではないかと思う。もちろん、そこにはっきりとした「正解」があるわけでなく、それを読んで自分はどう思うか、を感じられればいいのではないだろうか。

 

 ***

 

通常ならば、これらの作品で描かれる状況も、ある種の極限状態を描くための「設定」としか思えないかもしれない。たとえば、あと10日しか生きられない状況で人は何をするかだとか……いきなり教室が丸ごと異世界にワープしてしまってどうしようだとか……そういう、ある種の強制的な力によって作り出されたものだと感じるかもしれない。

しかし、現実の方がフィクションの状況に近づく時、それは「設定」ではなくなることがある。

作中のキャラクターは「個」でありながら、同時に社会的な存在だ。これは当たり前のことなのだが、私はこの意識がちょっと欠けているらしく、最近もっと気を付けたいと思っていることでもある。

 

ジョーカー(字幕版)

ジョーカー(字幕版)

  • 発売日: 2019/12/06
  • メディア: Prime Video
 

たとえば、私は去年話題になった映画『ジョーカー』にもそのことを感じた。

これはバッドマンシリーズの悪役「ジョーカー」が誕生するまでを描いた映画である。アメコミ原作でありつつ、現代社会への批評や警告が盛り込まれていると感じて、私はとても好きだった。

 

しかし好意的な評がある一方、批判も噴出し、人々の感想が分かれていたのが興味深かった。主人公のジョーカーことアーサーの行動に共感しすぎるあまり、テロを肯定しかねない作品だとか。どれだけアーサーに同情すべき点があったとしても、この主人公には共感できない、という意見だとか。

もっともわかりやすいのは、所得の高低である。単純に言って、視聴者が低所得であるほど、ジョーカーの行動に共感しやすいのは想像できる。低所得の人々(私もここに含まれる)にとって、アーサーはキャラクターであると同時に「もう一人の自分」であるからだ。

そういう人にとっては、この荒廃した世界や、ジョーカーの行為も「リアル」だと感じられる。それは設定ではなく、「今の私の状況」として感じられるからだ。

 

ただ、『ジョーカー』はそこからの自己批判が弱く、客観性に欠けていることは否めない。

アーサーは「ジョーカー」になって本当にダークヒーローとなったのか? 結末ははっきりと描かれず、すべては視聴者にゆだねられている。

 

 

こちらはノーベル賞作家のノンフィクションと、そのコミカライズ作品である。独ソ戦に参加した女性たちへの膨大なインタビュー集の漫画化だ。

私はコミカライズの方から入り、その出来栄えを素晴らしいと感じて、多くの人に手に取ってほしいと感じた。

しかし、この漫画化に関しても様々な意見が出ていて、これは私の予期していなかったことなので驚いた。

 

この作品は絵柄がとてもかわいく、実は私も最初見たとき「ちょっと女の子たちが幼く描かれ過ぎているのではないかな」という抵抗はあった。

しかし、読むにつれてまったく気にならなくなった。表現の繊細さ、漫画家さんが誠実にこの作品を描こうと向き合っていることを、コミカライズのすみずみから感じたからである。

 

ところが、コミックが発売されると、この作品を「戦争で戦うけなげな女の子たちの話」として消費している人たちに対する批判が上がっているのを目にしたのである。

戦争モノをそういう見方で楽しむこと自体を、私は否定しない。私にも似たようなところはあって、たとえば私はやくざ映画が好きだ。

常人からするとめちゃくちゃな理由(義侠心とか)で死んでいく男たちにドキドキしてしまうのだ。それはたいてい、理不尽で暴力的なことなのに、私はそれをかっこいいと思ったり、それに感動したりするのだ。

 

しかし、私が言いたいのは「戦争を描いた作品を美少女ものとして楽しんでもいいではないか」ということではない。

「戦争漫画を美少女ものとして消費すること」と「戦争というもののリアリティを受け止めること」は、そもそも同列に語られるべきではない。

これは全く違う次元の話なのだ。問題は、「美少女ものとして消費すること」が戦争軽視や、美談につながってしまいやすいことなのだと思う。

 

この作品でも外部的な視点が弱いことは指摘されており、その端的な例として、ソ連の敵国であったドイツ側からの視点が入っていないことなどが挙げられる。

彼女たちが戦ったのは、そもそもなぜなのか? 彼女たちをそうさせたのは、そもそも国家が戦争を始めたからではないか? では、どうして戦争は始められたのか? 「かわいい女の子」の話として読むと、その背景まで考えることはなかなか難しい。

 

私たちにとっては、ここで描かれる「戦争」もファンタジーにしか感じられないのかしれない。単純に、美少女を性的に消費することをけしからんとか、想像力が足りないとか言っているのではなく、作品に対して社会的な視野を持つことが必要だと思うのだ。

そしてこれは、私自身への戒めでもある。

 

 ***

 

現在カミュの『ペスト』の状況がリアリティを持っているように、戦争を描いたさまざまな作品に、私たちの状況の方が近づいていかないことを願うばかりだ。

今回の感染問題で、多くの人が日本という国家のあり方に疑問を持った(あるいは深めた)のではないかと思う。

 

自分も社会の一員だと自覚することは、私にはいまだになかなか難しい。が、そのせいで今、自分で考えることを丸投げをしてきたツケが回ってきているのかもしれないなぁ、とも思っている。

 

一つ一つの作品にその時代背景があるように、私たちの誰もが社会的な存在であることを、忘れないようにしたいと思う。