毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

自分の中に理性を否定する気持ちがあること

先日、以下の映画を鑑賞した。

 あらすじをおおまかに説明すると、タイムトラベル能力のある主人公のラブストーリーである。しかし、タイムトラベル能力があるという設定はただの設定でしかなく、たとえば「すごく記憶力がいい」「料理の才能がある」「過去に歴史的事件に遭った経験がある」程度のものでしかない。

つまり、タイムトラベル能力によって特別な出来事は起こらない。というより、うまく使おうとしても、なかなか役に立たない。

それよりも、主人公が一つ一つの出来事にきちんと対処し、恋人も家族も大事にして人生を送ることのほうが、丁寧に描かれた作品だと言える。

 

この作品の評価が高いのは前々から知っていたので、いつか観たいな、と思っていた。

そして、観て評価が高いことにも納得した。最後まで観ると、主人公のティムの垢抜けない、けれども誠実な人柄が、何よりも素晴らしいものだとわかるからだ。

彼は一時的な誘惑で人を裏切ったりしないし、悲劇的な出来事に遭遇してもきちんと周りの人のことを考える。ねぇ、どのドレスがいいと思う? という奥さんの(本人にとっては大真面目だけれど)くだらない、永遠とも思われるような退屈なドレス選びにも、怒らずに付き合う。子育ても一時的な「手伝い」ではなく、きちんと取り組んでいることがわかる。

父親との関係も、とても理想的だ。お互い気を許しつつ、尊敬しあう親子関係は、この物語に派手ではないものの、大きな感動をもたらす。

 

 

しかし、私はこの映画を観ていて、とてもつらい気持ちになってしまった。

なぜか? 一言で言うと、自分がこの作品に「受け手」として参加できないと感じたからだ。

これを一言で言うのは難しい。メタな視点になってしまう。以下の段階を踏まえた上で、私は「自分はこの作品のいい視聴者にはなれない」と感じたのだ。

  1. この作品が破綻のない人間と、その人間関係を誠実に描いていること
  2. それが成功していること
  3. 視聴者はそれを、自分に身近なものとして受容できるであろうこと
  4. むしろ、破綻のない人間性にこそリアリティを感じるであろうこと

4.で「むしろ」と言ってしまうところに、私のどうしようもない抵抗が表れている。つまり、私は破綻のない人間にリアリティを感じられないのである。

 

 

実は、これまでにも、同じような感想を抱いた映画がある。

ズートピア (字幕版)

ズートピア (字幕版)

 

 どちらもヒットした作品なので、観たことのある人も多いだろう。ツイッターでも、これらの映画を称賛する声をけっこう目にした。しかし、これらの映画を観た時も、私は一人自分が作品に置いて行かれたような気がしてしまったのだ。

 

私がこれらの映画を肯定できない理由は、とても単純なものなのだと思う。

おそらく、これらの映画を肯定すると、私は自分の人格や人生が否定されるように感じてしまうのだ。それが、とてもつらいのである。

 

私は、どうやっても、自分がこれらの映画の登場人物たちのように、理性的にものを考えられるような気がしないのである。

もうひとつ言うと、どうして彼らが、お互いきちんと話が通じるのかわからないのだ。もちろん、うまくいかないことや思い違い、理不尽な出来事もきちんと描かれているのだが、それでもなお、そこには「同じ人間として」相手を認識していることがうかがえる。そのことにさえ、私は彼らの理性を感じてしまうのである。これを、デリカシーの高さといってもいいかもしれない。

 

……理性だけでなく、私にはデリカシーも足りないのだろうか?

そうなのかもしれない。私は、根本的なところで、他人を人とも思っていないのかもしれない。つきつめていくと、そんな風にも考える。

 

 

というように、このような「理性的」かつ「素晴らしい」作品に出会うと、私の人間性は揺らいでしまうのだ。

さらに追い打ちをかけるのは、現代社会において、これらの作品に対してこのような感情を抱く人間は、おそらく少数派だろうという事実である。

しかしプラスに考えれば、これは私一人だけの特別なことではないだろう、ということもわかる。多くはないだろうが、私と似たように考える人もきっといるはずだと思う。

 

これはただの個人的な予測だけれど、このように「特別ではないけれど、きちんとした、理性的な」人間を描く作品は、これから増えていくのではないだろうか。

そして、映画や本を観たり読んだりしていくと、私はまた、そのような作品に出会うことだろう。

そのたびに、この問題についても考えていけたらいいなと思う。