毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

ハッピーエンドは世界と和解すること

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シェイプ・オブ・ウォーターのラストを、あなたはハッピーエンドだと思いますか?

※この記事内では、映画『シェイプ・オブ・ウォーター』の結末に触れています

 

最近は作家や漫画家など、いわゆる個人でフィクションを作成する職業の人も、ツイッターなどのアカウントを持っていることが多い。その人々のうち、少なくない人が社会的な発言をしていることに、私は今でも新鮮な驚きを感じる。

断っておくが、これは、創作活動を仕事とする人は政治的な発言や宗教的な発言をしないでほしい、という意味ではない。

では、なぜそんなことを思うのかというと、私自身が根本的なところで社会に無関心で、社会的なことから逃げるためにそういう職業に憧れている気持ちがあるからだ。

 

それら社会的な発言をしている作家さんたちは、社会的なことがわからないから、つまり社会的な問題について意見を言わなくてよいから、作家になったわけではないのだなぁ、と思うのだ。それが私にとっては、今でも驚きなのである。

 

 

この「新鮮な驚き」を言葉にすることを、私ははばかる。なぜなら、そこには私の職業差別的な偏見があらわになっているからだ。以下のように段階的に箇条書きにしてみた。

  1. 作家や漫画家で社会的な発言をしている人々が、自分の職業も社会に密接な関係があると理解していること
  2. 自分の立ち位置を理解した上で、社会に対して発言をしていること
  3. それらの人々も、(ごく一般の務め人と同じように)社会の一員として社会的なルールの中で生きていること

これらを一言でいうと、「作家や漫画家は、社会に適応できない人のいきつく職業ではないのだなぁ。彼らも私たちと同じ制約の中で生きているのだなぁ」ということになる。

 

 

自分がこんな偏見を持っているのは嫌だなぁ、とつくづく思う。なんでこんなひどいことを思っているのだろうか?

ここにはおそらく、作家や漫画家……というより芸術全般の職業は、社会的な制約から免罪されるという私の現実逃避があるのだろう。私は、そんな立場になりたいのである。

自分が社会的なルールの中でうまく生きられないことに対して、私は常に負い目を感じているのだが、そのことに悩みたくないのである。だから、芸術家にとんでもない幻想を抱き、そんな立場に逃避しているのだ。

その裏返しとして、芸術家という職業全般に、差別意識を持っているのだろう。勝手に自分の心理を投影して、芸術家なんてろくなものではない、という風に思っているのだ。

 

しかし、(当然のこととして)芸術家にそんな特権はない。

そもそも、無人島で自給自足の生活をするのでない限り、何人たりとも、社会的な制約を受けずに生きるのは無理である。

つまり、間違っているのは私だということは明らかなのだ。

 

 ***

 

私はたまに「社会に認められたい」と人に言う。しかし、大抵「?」という顔をされる。どうも、何かがよく伝わっていない印象を受ける。

友人のSさんに同じことを言うと、「でも、社会ってそんなに良いものじゃないよ?」と言われた。この言葉は、私の理解を進める手がかりになったように思う。

 

自分が社会的なルールの中でうまく生きられないことに対して、私は常に負い目を感じていることは、上にも書いた。しかし、これを素直に吐露することが、私はとても恥ずかしいのだ。そのために、私は「社会に認められたい」と婉曲な表現をしているのだということがわかった。

つまり、「キャリアを上げたい」や「社会的に成功したい」という意味で「社会に認められたい」と言っているのではないのだ。

Sさんが「社会ってそんなに良いものじゃないよ?」というのは、(たぶん)そういう意味なのだろう。キャリアアップや社会的成功が、能力の優秀さやある種の才能の上に成り立っているのはわかる。しかし、それは大きなプレッシャーや責任を伴うので、「そんなに良いものではない」ということなのだろう(と、思った)。

 

では、私の言う「社会に認められたい」とはどういう意味なのだろうか。

 

 ***

 

話は変わるが、ギレルモ・デル・トロ監督の「シェイプ・オブ・ウォーター」という映画がある。ファンタジックで幻想的なストーリーの中にグロテスクさや残酷さが感じられる作品で、第90回アカデミー賞で作品賞や監督賞を受賞した映画だ。

主人公のイライザは声で話せない女性で、清掃員としてある研究室で働いている。ある日そこに、半魚人のような容貌の、未知の生物が運ばれてくる。次第に<彼>と心を通わせていくイライザ……。しかし、そんな彼らを理解しようとしない人々の力により、2人はついにピンチに立たされる。

 

この映画を観終わったときに、私が強烈に感じたのは、主人公・イライザはこの世界に受け入れられなかったのだな、ということだった。

映画のラストで、イライザは銃に撃たれてしまう。つまり、この世界で「死んで」しまうのだ。

しかし、半魚人に治癒能力があったため、彼女は「生き返る」。映画は、「この世界ではないどこかで」 イライザが未知の生き物の<彼>と幸せに暮らすことを予感させるように終わる。

つまり、愛する人と結ばれる、というラストなのだ。ハッピーエンドと言ってもいいのだと思う。というか、一般的にはそう思うのかもしれない。しかし、私はこれをハッピーエンドだとは思えなかったのだ。

 

愛する人と結ばれるとしても、「この世界で」生きていけないのなら、それは幸福と言えるのだろうか?

私はそう思ったのである。

 

自分も社会の一員でありたい。この世界のルールを、私もわかりたい。それに順応して生きていきたい。

私が願っているのは、おそらく、そういうことなのではないかと思う。

「これからもこの世界で生きていけそう」と思えたら、それが一番いい。私が欲しいのは、社会的なことを知らなくても免罪される特権でもなければ、社会的な名誉や成功でもない。本当はただ、この社会にいることを許されたいのだ。

 

しかし、この気持ちをどう説明したらよいのだろう? これをストレートに言って、はたして人に理解されるだろうか。答えはNOなのではないか。

このことについて、私はどのように対処するべきなのだろう? おそらくは、根本的な部分で私は何か矛盾したものを抱えているのだと思う。それに向き合うことが、今一番必要なことなのではないか。

私は「それ」を見て見ぬふりをしている気がする。しかし、それは一体なんなのだろう。