毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

アンナ・カレーニナについての雑感

アンナ・カレーニナ』(トルストイ)の読書会があるので、その前に自分の雑感をひととおりメモしておきたいと思う。おそらく、ほかの人の意見を聞いたら、私は自分の見方を反省するべきだと考えようとすると思うので。

ネタバレを含みます。

 

トルストイについて

私はトルストイの文章をとても素晴らしいと思っており、特に登場人物の性格描写、心理描写においては神様のように思っている。

しかし、彼の生涯については何も知らなかったので、今回の読書会を機に、以下の伝記を読んでいる(まだ読み終わっていない)。

トルストイ 新しい肖像

トルストイ 新しい肖像

 

 読んで思ったのは、トルストイのような人物に生まれたら、きっと一生はめちゃくちゃになり、とても幸福には生きられないだろうということだ。

この本の中で、トルストイは生まれつき強すぎる自己愛のために悩まれされ、そのせいで感性も知性も大いに歪められ、とても正常な少年時代を送ったとはいえないと書かれている。さらに、それは成人になり壮年になり老人になっても治ることはなく、むしろ強くなってしまったと。

ひどい書かれ方であるが、おそらくこれは大体ほんとうのことだったのだろうと思えた。トルストイの独りよがりな善性、そしてある種の視野の狭さは、(書かれたものが大変すばらしいものであるにも関わらず)物語を読む上でもいつも障害になる。

しかし、トルストイの性格は私自身にもとても覚えのあるものだったので、私も自分もとても幸福になんてなれないのではないか、と読んでいて怖くなってしまった。もし間違った性格で生まれてしまったという人間がいるなら……と考えると、私はつらくなる。

 

アンナ・カレーニナ感想

大学の時に一度読んでいたので、今回は再読であった。何度読んでもトルストイの文章はすばらしく、私にとってこれ以上の書き手はやはりこれからも現れないのではないかと思えた。

私がトルストイの文章で好きなところは、読んでいて人物の思考がぴったりとなぞれるように、あるいは自分がその人物として動いているように感じられるところだ。その人物が起こすアクションの過程と性格が一致しているところ。こうやって書いているうちにも、その感動を思い返すだけで私の胸はいっぱいになる。

 

そして全体として非常に豊かな、雄大な印象を受けるところが素晴らしいと思う。特に私はトルストイの描く舞踏会のシーンがとても好きで、(『戦争と平和』の舞踏会のシーンも素晴らしいが)この『アンナ・カレーニナ』でも、アンナがヴロンスキーと踊るシーンはまるでこの世のものとは思えないような美しさである。

その他にも印象的なシーンはたくさんあるが、私はリョーヴィンが自分の恋を諦めかけているときに、偶然夜道でキチイを見つけ、何か大いなる啓示のようなものに打たれる場面も素晴らしいと思う。リョーヴィンは話の時々で何度か宇宙的な感覚(とでも言えばいいのだろうか)に襲われるが、このシーンはその感覚と孤独感と、そしてキチイという運命の恋人との再会が混然一体となってとても美しい。

 

この物語はしばしば「完璧な小説」と言われてきたらしいが(新潮文庫解説より)、私はそうは思わない。登場人物の行動にどうしても納得できないところがあるし、ストーリーも散漫な部分があると思う。

けれども、再読してみて、やはりトルストイ以上の人物描写をする作家はいないと私には思えた。トルストイの文章は、私の永遠のあこがれである。

 

 アンナについて

アンナの造形については、彼女は同情すべき女性だという作者の思いが強すぎるように思えた。トルストイはアンナを迷える子羊であると定義して、読者にもそれを押し付けようとしているきらいがある。人々は彼女を寛大な心で赦すべきであり、愛するべきであると。私もなるべくそんな作者の意思に沿いたいと思うのだけど、どうしてもアンナに同情の余地があるとは思えなかった。

 

アンナは輝くばかりに美しく、誠実で、しかも賢い女性だとされているが、実際に彼女の取る行動は支離滅裂である。読者の多くは、むしろ彼女よりも彼女の夫のカレーニンに同情すると思う。

もし、カレーニンがアンナを冷たく突き放し、あるいは罪人に鞭打つようなひどい仕打ちをしたなら、私はもっとアンナに同情しただろう。しかし、そうする要素がとてもあるにも関わらず、実際にはカレーニンはアンナを赦そうとするのだ。

この部分は、読者の多くを戸惑わせるのではないかと思う。

 

アンナの言動は全く現実的なものではなく、言い訳ばかりである。しかし私はこのような言動がとても自分に覚えがあるので、これは彼女が狂気に陥っているのだなと思って読んだ。

不思議なのは、そんな狂ったアンナを人々が見捨てないことで、これは彼女が狂気に陥る前の人徳によるものなのだろうか、といろいろ考えた。人間、よくしてもらった人はなかなか見限れないものだからだ。

これはドリイの行動にもっともよく表れていて、ドリイは社交界でどれだけアンナがひどく言われていようとも、自分はアンナを見捨てまいとしていることからもよくわかる(しかし、実際にアンナに会うと、ドリイもアンナの不自然さを無視できないのだが)。

 

ただ、留意したいのは、アンナはカレーニンと20も年が離れているということだ。しかも、カレーニンがアンナに恋をしたわけではなく、アンナの叔母に仕向けられて、どうしても結婚せざるを得ないような状況になって結婚したのだという。

ヴロンスキーに出会う前のアンナは、おそらくそんな状況も仕方ないと思っていたのだろう。彼女は好きでもないし自分を愛してもくれない男の、しかし良き妻であったのだろう。この部分はかなり重要だと思うのだが、物語の中ではさらっと触れられている程度である。

もし、この部分がもっときちんと書かれていたならば、もっとアンナに対する見方も変わったかもしれない。アンナはとても孤独だったのだろう。

 

リョーヴィンについて

この作品において、リョーヴィンはしばしば「完璧に理解する」ということをする。あるいは、彼の思考が「完璧に理解される」ということが起こる(と書いてある)。しかし、そんなことは実際にはないと私は思う。

 (アンナもそうだと思うのだが)リョーヴィンはひどく甘ったれた人間で、その言動には何度も驚かされる。彼が非常にお金持ちのお坊ちゃんで、あまり苦労を知らないのだろうということは想像できるが、それにしても彼の純粋さは時々読者をうんざりさせるのではないかと思う。

 

それでも私は『アンナ・カレーニナ』の登場人物たちの中で、一番リョーヴィンが好きだ。彼が自分のせいで周囲を幻滅させることを恐れていることや、政治的なことがまったくわからず暴論を言ったりまごまごしたりするところにも共感を覚えるし、いつも理想を高く持ちすぎて達成できないところはとてもリアルである。

そんな短所にも関わらず私が彼を好きなのは、彼が弱者を他人と思わず一体になろうとするからである。今ではならず者となって病に侵されている兄も、口ごたえしてばかりだが頑丈で自分のやるべきことがわかっている農民たちとも、彼は理解し「完全に」一体になろうとする。

だが、上記でも述べたようにそんな「完璧」や「完全」は存在しない。さらに、人間は他者と一体になることなんてできない。ので、リョーヴィンはいつも挫折している。そういう挫折が私は好きなのだ。

 

しかしこれはトルストイが書いた物語なので、リョーヴィンはキチイと結婚することによって、最後の最後でその「完全」に近いものを手に入れる(ように書かれる)。これはトルストイが、結婚についていかにまだ理想を捨てていないか……ということの現れなのではないかと思う。

最終的にはトルストイは妻と喧嘩し家出をした上で、世界に知られた文豪とは思えないようなひっそりとした死に方をする。この最期を考えると、トルストイはついに結婚についての理想を捨てきれなかったのではないかと思う。

たぶん、本当に素晴らしい、美しい瞬間が、奥さんとあったのだろう。トルストイの妻は悪妻と言われているが、(トルストイの性格を考えるにつけても)私はあまりそうは思っていない。

 

その他

トルストイの作品では、基本的に、個人の力が重要視されていないように思う。

戦争と平和』にはかの有名なナポレオンが出てくるが、そこでのナポレオンは全く平凡でなんのカリスマ性もない人物として造形されている。これはトルストイがロシア人であることを差し引いても、珍しい見方なのではないかと思う。

ナポレオンはただ「歴史がそうさせた」だけの英雄で、本人には何の特別なところもなかったという『戦争と平和』での書かれ方は、『アンナ・カレーニナ』でも共通するものがあると感じる。『アンナ・カレーニナ』でも多くの魅力的な人物が描かれるが、その誰一人として、自分の力で何かを達成できない。

人々はただただ生きることに翻弄され、誰一人自分の人生に確信できない。これはトルストイの作品に通底するテーマのようだ。

 

 ***

 

今回この雑感を書くにあたって、前回読んだ時の自分の感想を読み返した。すると、今と見る部分が全く違うことにとても驚いた。

たとえば、前回読んだ時は、リョーヴィンのプロポーズをとても微笑ましい可愛らしいものだと思ったのだが、今はそう思えなかった。また、前回はアンナの最期に呆然となり、かなりのショックを受けたのに、今回はそれを当然の成り行きだと思った。

自分ひとりでさえ、こんなに読み方が違うので、読書会で他の人の感想を聞くのが楽しみだ。