毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

同じ気持ちになることの正しさと間違い

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映画『A.I』より

最近、映画をよく見ている。Amazonプライムに加入したので、その中にある映画は見放題だ。

コロナウイルスのせいで何もかも自粛中のご時世なので、同じように映画を観ている時間が増えたという人は多いのだろう。ツイッターで、以下のようなタグがはやっていた。

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フォロワーさんの中にも、このチャレンジをされている方がちらほらいて、それを見ているだけでも楽しい。

私もやってみようかなーと思い、一番最初の「覚えている中で最初に観た映画」を考えようとした。が、びっくりするくらい覚えていない。

小学生の頃は、知り合いの人だかなんだかが毎夏子ども映画のチケットをくれたらしく、母が私と弟を連れて見せに行ってくれていたのは覚えている。しかし、それがなんの映画だったのかとなると、まったく覚えていない。

おそらく、本当にどうでもいい映画だったのだろうと思う。あるいは、私の感受性の問題だろう。

 

子供の頃に映画館に行ったことを強烈に覚えている映画というと、私は『A.I』(スティーヴン・スピルバーグ監督)になる。2001年公開だから、当時私は中学1年生だったはずだ。

私の両親は洋画派で、映画館へ映画を見に行くとなると、決まって洋画だった。しかも、字幕派で吹替はいっさい見せてくれなかった。

いくつの頃かはわからないが、字幕の漢字が時々読めないなぁと思っていた記憶がある。私でそうだったのだから、3つ歳下の弟は、もっと読めない漢字が多かっただろう。しかし、自分たちが見たいものを見る両親であった。

 

母親はスピルバーグが大好きで、とにかく映画らしい映画、派手で大衆的な映画が好きな人だ。父の映画の趣味は、あまりわからない。母よりは文化的な映画が好きらしいが、知ったかぶりばかりするので、私は彼の本当に好きなものがよくわからなかった。

ただ、2人とも映画自体は大好きで、リアクションが大きい。とても感情的で、映画館でも声を出したりした(今思うと、困った人たちである)。

そんな両親だから、2人とも『A.I』のラストで大号泣していた。ネタバレになるので詳しくは言えないが、AIの子どもが母の愛を求めた末に……という、悲しくも美しいラストだった。私も子どもながらに感激して、泣いた。

 

しかし、映画館が明るくなると、弟だけが全く泣いていないことがわかった。両親はこのことにとても驚いたようだ。あのラストで感動しなかったのか? 悲しくならなかったのか? と、弟に言い、さらには、あれで泣かないなんて、心がないのではないか? と言っていた(子どもにそういうことを言う人たちだったのだ)。

 

子どもが親の愛を求めて……という内容に弟が感動しなかったので、より両親は不満に思ったのかもしれない。あるいは、弟は当時小学4年生だったのだから、あの内容があまり理解できなかったのかもしれない。

それはともかく、では私はその時どうしたかというと、たしか両親と同じようなことを弟に言ったように記憶している。つまり、あれで感動しないなんて信じられない、とか、そういうことを言ったような気がする。

今思い返すと、ひどいことを言ったなぁと思うのだが、当時の私はけろっとしていたはずだ。両親と同じように、私もまた、そんな子どもだったのだ。

しかし、このことは私の中でずっと引っかかっていたのだろう。私が『A.I』のことを覚えているのは、映画の内容よりも、やはりこの実体験のせいだろう。

 

私はあの映画で泣かなかった自分を想像できない。もし自分が、あの時の弟の立場だったら、などということは、むなしい仮定の話としか思えない。

しかし、もし泣いたのが自分だけで、他の家族がけろっとしていたら?

こう思うと、ちょっと恐ろしくなる。

私は自分が泣いたことを恥ずかしく思ったかもしれない。もしかしたら、泣くまいと隠そうとしたかもしれない。しかし、やはり泣いていただろう。

そして、それを家族に批判されたり、あるいはからかわれたりしていたら、とても傷ついていたと思う。

 

それは単純に、自分の気持ちをからかわれたということでもあろう。しかし、自分1人が泣いて、あとの3人が泣かなかった、という状況が、私をより絶望的な気持ちにさせたと思う。

こう思うと、やっぱりあの時、弟を非難したことを悪かったなぁと思うのだ。

 

 ***

 

コロナ対策でどこも汲々としている中、ときどき感情や絆を押し付けているのでは、と思うメッセージがあって引っ掛かりを覚える。

例えば、今はもう見なくなったが、「大切な人のために、家にいよう」というのもそうだったのだと思う。一見、なんの変哲もないメッセージだが、「大切な人のために」というのがダメだったのだと思われる。

大切な人がいなくても、家にいなければならないのに、勝手にそういう名目(?)にされることに違和感があったのだ。私も基本はぼっちだし、家族大好きという人間でもないので、「私はそんな気持ちでやっていない」という気持ちは非常にわかった。

そういう問題点があったから、あのメッセージを今では見かけなくなったのだろう。

 

感情を押し付けられたり、あるいは逆に否定されたりすると、どうも人間は強い違和感や反発を覚えるようだ。

そしてそれは、上記の例でもわかるように、それが行為としては正しいことだったとしても、そうなのだ。

 

そんな時、「私はそんな気持ちではないですよ」と言えたらいい。あるいは「みんなはそうかもしれないけど、私は違うよ」と受け流すことも一つの手だろう。

問題は、自分が少数派の立場だった時である。上の例で言えば、「大切な人のため」という理由が受け入れられない人。これは「誰しも、大切な人がいるはずだ」という前提のもとにあるメッセージなので、厄介なのである。

圧倒的多数に対して、自分がマイノリティの立場である場合、気持ちそのものものが伝わらなかったり、あるいは否定されたりする。はたまた、気持ちだけでなく、事実そのものが歪曲されることもある。

 

 

上では私のささいな体験を書いたが、コロナ騒動による危機的状況になって、大なり小なりそういう問題を目にする機会が多くなった。

「みんながそのはずだ」と思うとき、そう思った人はマジョリティの側にいるのだ。そして、それだけで人は権力のようなものを持つのだと思う。

そして、マイノリティの人が(あるいは社会的弱者が)その権力に立ち向かうのは非常に難しい。前提が違うのだから、認識から説明しなければならないし、説明をしても伝わらないことが多いのだろう。

事実を客観的に説明できれば、もちろん一番いいし、それで取り合ってくれなかったら、それは相手が悪い。

しかし、上記のように「気持ち」の違和感だったり個人差だったりするものを説明するとなると、マジョリティ側からしたら、真意がつかみにくい場合があるかもしれない。あるいは、言いがかりだとはなから相手にしない、失礼な人もいるかもしれない。

しかし、その「気持ち」は確かに存在する。あるいは、誰しもが持っている(はずだ、という)気持ちが「ない」こともまた存在する。

 

問題は、そういう時に、マイノリティ側はその「気持ち」を共有したいのではない、ということだと思う。

マイノリティ側は、あなたもこんな気持ちになってくれ、と要求しているのではない。あるいは、こういうメッセージで私は嫌な気持ちなった、とクレームをつけたいわけでもないと思う(もしクレーマーだったら、それは無視すればいい)。

では、マイノリティ側がそんなときに言いたいこととは、いったいなんなのだろう? 

私は、決めつけないでくれ、ということだと思う。ないことに(あることに)しないでくれ、事実を歪曲しないでくれ、自分に嘘をつかせないでくれ、ということだと思う。その上で、ちゃんとした対応を望んでいるのだと思う。

 

 ***

 

私は今まで、ツイッターで動物の動画や写真をアップするアカウントをフォローしていなかった。しかし、コロナが流行するようになってから、秋田犬の写真をアップしているアカウントをフォローした。

そのアカウントさんがアップする秋田犬の画像を見ていると、本当にかわいいなぁと思う。そして、この犬の写真になら、誰も悪い感情や嫌な感情を持ったりしないだろうと思う。とても安心である。

 

 

上に書いたように、私の両親はちょっと問題もある人たちなのだが、私は両親とのいい思い出もたくさんある。

その一つとして、母が本当に楽しそうに映画を見るのは、とてもいいことだったな、と思う。彼女はわくわくする映画が大好きだったので、家で『ジュマンジ』や『ハムナプトラ』、『ジュラシックパーク』などを一緒に見ると、人一倍喜び、本当に楽しかった。

私が面白い! と思っているものを、母も全力で面白い! と思っているのがわかると、それだけでものすごく安心感が得られたのだと思う。

 

 

基本的に、一緒の気持ちになる、ということはとても心地よいことなのだろう。

安心できるし、難しいことを考えなくていいし、自分に自信が持てる。困難なことにも、前向きに取り組める。いいことづくめである。

ただ、みんながそうではない、という事実を認めたがらない人たちが多すぎる。認めたがらない人はまだかわいい方で、その存在を無視しようとしたり、意図的に分断して対立を煽り立てたりする人もいる。恐ろしいことだと思う。

しかし、私もまたそういう恐ろしい人間に、いつでもなりうる。というか、気を抜くとたびたびなっていると思う。

その恐ろしさを忘れないようにしたいと思う。