毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

自分の中に理性を否定する気持ちがあること

先日、以下の映画を鑑賞した。

 あらすじをおおまかに説明すると、タイムトラベル能力のある主人公のラブストーリーである。しかし、タイムトラベル能力があるという設定はただの設定でしかなく、たとえば「すごく記憶力がいい」「料理の才能がある」「過去に歴史的事件に遭った経験がある」程度のものでしかない。

つまり、タイムトラベル能力によって特別な出来事は起こらない。というより、うまく使おうとしても、なかなか役に立たない。

それよりも、主人公が一つ一つの出来事にきちんと対処し、恋人も家族も大事にして人生を送ることのほうが、丁寧に描かれた作品だと言える。

 

この作品の評価が高いのは前々から知っていたので、いつか観たいな、と思っていた。

そして、観て評価が高いことにも納得した。最後まで観ると、主人公のティムの垢抜けない、けれども誠実な人柄が、何よりも素晴らしいものだとわかるからだ。

彼は一時的な誘惑で人を裏切ったりしないし、悲劇的な出来事に遭遇してもきちんと周りの人のことを考える。ねぇ、どのドレスがいいと思う? という奥さんの(本人にとっては大真面目だけれど)くだらない、永遠とも思われるような退屈なドレス選びにも、怒らずに付き合う。子育ても一時的な「手伝い」ではなく、きちんと取り組んでいることがわかる。

父親との関係も、とても理想的だ。お互い気を許しつつ、尊敬しあう親子関係は、この物語に派手ではないものの、大きな感動をもたらす。

 

 

しかし、私はこの映画を観ていて、とてもつらい気持ちになってしまった。

なぜか? 一言で言うと、自分がこの作品に「受け手」として参加できないと感じたからだ。

これを一言で言うのは難しい。メタな視点になってしまう。以下の段階を踏まえた上で、私は「自分はこの作品のいい視聴者にはなれない」と感じたのだ。

  1. この作品が破綻のない人間と、その人間関係を誠実に描いていること
  2. それが成功していること
  3. 視聴者はそれを、自分に身近なものとして受容できるであろうこと
  4. むしろ、破綻のない人間性にこそリアリティを感じるであろうこと

4.で「むしろ」と言ってしまうところに、私のどうしようもない抵抗が表れている。つまり、私は破綻のない人間にリアリティを感じられないのである。

 

 

実は、これまでにも、同じような感想を抱いた映画がある。

ズートピア (字幕版)

ズートピア (字幕版)

 

 どちらもヒットした作品なので、観たことのある人も多いだろう。ツイッターでも、これらの映画を称賛する声をけっこう目にした。しかし、これらの映画を観た時も、私は一人自分が作品に置いて行かれたような気がしてしまったのだ。

 

私がこれらの映画を肯定できない理由は、とても単純なものなのだと思う。

おそらく、これらの映画を肯定すると、私は自分の人格や人生が否定されるように感じてしまうのだ。それが、とてもつらいのである。

 

私は、どうやっても、自分がこれらの映画の登場人物たちのように、理性的にものを考えられるような気がしないのである。

もうひとつ言うと、どうして彼らが、お互いきちんと話が通じるのかわからないのだ。もちろん、うまくいかないことや思い違い、理不尽な出来事もきちんと描かれているのだが、それでもなお、そこには「同じ人間として」相手を認識していることがうかがえる。そのことにさえ、私は彼らの理性を感じてしまうのである。これを、デリカシーの高さといってもいいかもしれない。

 

……理性だけでなく、私にはデリカシーも足りないのだろうか?

そうなのかもしれない。私は、根本的なところで、他人を人とも思っていないのかもしれない。つきつめていくと、そんな風にも考える。

 

 

というように、このような「理性的」かつ「素晴らしい」作品に出会うと、私の人間性は揺らいでしまうのだ。

さらに追い打ちをかけるのは、現代社会において、これらの作品に対してこのような感情を抱く人間は、おそらく少数派だろうという事実である。

しかしプラスに考えれば、これは私一人だけの特別なことではないだろう、ということもわかる。多くはないだろうが、私と似たように考える人もきっといるはずだと思う。

 

これはただの個人的な予測だけれど、このように「特別ではないけれど、きちんとした、理性的な」人間を描く作品は、これから増えていくのではないだろうか。

そして、映画や本を観たり読んだりしていくと、私はまた、そのような作品に出会うことだろう。

そのたびに、この問題についても考えていけたらいいなと思う。

 

 

「いつ・どれくらい」という具体性を手に入れるまで  ――親との距離について

f:id:hikidashi4:20190719202512j:image1人暮らしをして思うようになったのは、私の両親はとても料理が下手だったのだなぁということだ。

私は食べ物の好き嫌いの多い子どもだった。ナスもカボチャも豆類も嫌いだったし、大きいトマトも嫌いだったし、ホウレンソウもあまり好きではなかったし、とにかく挙げればきりがない程度には好き嫌いが多かった。

しかし、一人暮らしを始めて初めて自分でかぼちゃを煮たところ、そのおいしさに感動した。ほくほくなのである。味付けもちゃんとかぼちゃの味がする。私の母親の煮たかぼちゃは、いつもやわやわのべちゃべちゃで、箸でつかむと崩れてしまっていた。さらに、しょうゆの味が濃かった。

 

玉ねぎとねぎだけはいまだに苦手だが、それ以外はほとんど食べられるようになった。

料理はレシピ通りに作ればだいだいおいしくできることは、大変な発見だった。母親の料理の腕前は上記の通りだが、父親はもっとひどかった。彼は料理の本を買うのに、全くそれを見て料理を作らないばかりか、化学調味料は体に悪いと思い込んでいたので、味付けがいつも「健康的」なものだったのだ。

 

 ***

 

私は福岡市内に住んで、市内で働いている。両親が住んでいる実家も市内である。

それを言うと、どうして実家で暮らさないの?と聞かれることがある。その方が明らかに経済的だし、交通の便も大差がないからだ。

 

両親と離れて暮らしている理由を説明するのは、意外と難しい。

だいたいは、「その方が気を遣わなくて楽だから」と答える。そして、だいたいの人はこの答えでも納得してくれる。

しかし、本当はそうではないのだ。これは質問した人の家族が、私の家族とは環境が違うだろうと思っての答えなのだ。

 

たとえば、両親と待ち合わせをする。両親は必ず遅れる。

たとえば、父の車に乗せてもらう。彼は車を運転している最中にも電話を取るので、私は父の車に乗せてもらわないようになった。

たとえば、久しぶりに実家に帰る。とても雑然としていて、ある一定の生活スペース以外はずっと物が出したままになっている。

 

だいたい何時くらい、だいたいどれくらい、ということを彼らは守ることができない。そして、実家暮らしをしていた時、私は「ほとんどの人がそうなのだ」と自分を納得させようとしていた。

しかし、私はどこかで気づいていた。私の両親はとても怠惰である、と。けれども、それを指摘して彼らがそれを直すことはないとわかっていたし、私は家で自分だけ規則正しい生活をする気力もなかった。

 

結果として、両親と離れてみて、私はとても楽になった。

私は彼ら独自のルールに合わせるより、世間のルールに合わせる方が楽なことを発見したのだった。彼らの「いつ・どれくらい」は常にフィジカルなもので、きちんとした基準がないのだ。

世間のルールが自分には厳しすぎると感じることも、よくある。私は数字が苦手だし、予定を立てるのが下手な上、それらを達成する能力にも欠けているのだ。

しかし、両親と会うと、それでも社会のルールで生きていく方がいいと感じる。

 

 ***

 

叔父(母の兄)が亡くなった時、私は父の車で葬儀場へ行ったのだが、彼は葬儀場は分かっていると言っていざ着いてみると、誰もいなかったことがあった。葬儀の開始時間はとうに過ぎていた。それでも父は、「おかしいな、でも大丈夫大丈夫」と言っていた。結局、30分くらい遅れて本来の式場に着いた。

叔父は身寄りのない人で、実の娘が一人いたが、彼女はほとんど見舞いに来ておらず、臨終の際も病院に来なかった。そんな叔父に唯一頻繁に顔を見せに行っていたのが、私の両親だった。彼らは叔父が危篤だという連絡を深夜に受け取って、午前2時まで叔父に付き添い看取ってあげていた。

 

深夜に車を飛ばして駆けつけ、何時間も付き添い看取ってあげながら、葬式に遅れてもまったく悪びれない父は、不思議な人である。どちらがいい、というわけではない。ただ、父は深夜に義兄を看取ることはできても、葬式の開始時刻に間に合うことはできなかったのだ。

おそらく、私の両親は悪い人たちではないのだろう。

 

しかし、私はそんな両親とは一緒に暮らせないと思うし、できればこれからも暮らしたくはない。

 

 

長い旅の記録(後編)  ――4泊5日新潟旅行記

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佐渡島の景色はどこも美しかった。

中編で書いた小木の部分が今回の旅のハイライトだったので、あとはもう、駆け足で書いていきたいと思う。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20190524200126j:image佐渡2日目は、相川地区へ向かった。ここは佐渡金山のある地域だ。

金鉱の採掘跡は想像以上のスケールで、大迫力だった。金(ゴールド)はまさに権力そのものだということがよくわかった。でないと、危険を冒してこんなに巨大なものが運営できるわけがない。

それにしても、これまで人気のないところばかり観光してきたため、ここでの観光客のうるささには閉口してしまった。

 

もうひとつ金山で面白かったのは、おみやげ所である。

金塊が積み上げられたようにディスプレイされたものに、「これが本物なら…260億円」と書いてあるので、なんだろうと思ったらボックスティッシュだった。

この他にも金にかけた様々なおみやげがあり、金山のおみやげは見ているだけで楽しかった。

 

 ***

 

しかし金山を出ると、人気がぱったりなくなった。昨日の曇天が嘘のように、この日はカッと太陽が照りつけている。私は日傘をさして山を下ったのだが、他に道路を歩いている人影は一つもなかった。

 

また、昼食を食べるところがない。町のメインストリートらしき通りは、どの店舗もシャッターを下ろしている。

かろうじて営業しているらしきところに入るが、中には誰もいない。すみません、と声を張ると、奥からおばあさんが出てきた。お昼やっていますか? と尋ねると、大丈夫だと言われる。

おかしかったのは、焼魚定食のお魚はなんですか、と訊くと、ちょっと待ってねと奥へ引っ込んで「アジ、今日はアジよ、こういうの」と生の魚を持ってきて見せられたことだ。それにします、アジ大好きです、と私は笑いながら言った。

料理が出てくるのを待っている間、なんと続々と客が来て、店はいっぱいになってしまった。他に入れるお店がなかったのだろう。おそらく、店のおばあさんが一番びっくりしていたのではないかと思う。

 

 ***

 

 f:id:hikidashi4:20190524200234j:image新潟滞在最終日は、ドナルド・キーン・センター柏崎へ行った。

とても行きたかったところなのだが、電車の都合で1時間ほどしかいられない。少しでも長く見学しようと早く行って、開館時間の10時前に着いた。

ガラス張りの扉から中をのぞいて見ていると、カウンターの人が出てくる。どうしたのだろう、と思っていると、その人は扉を開けて、なんと中へ入っていいですよと言った。

「いいんですか?」

「どうぞどうぞ」

願ってもないことに、私は狂喜乱舞である。受付で、

ドナルド・キーンさんのことはご存じですか?」

と訊かれたので、しっかり「ファンです!」と答えた。

 

ドナルド・キーン・センターの展示はとても素晴らしかったのだが、私は時間がなかったので、豊富な映像資料のほとんどを見られなかったのが残念である。

唯一見ることができたのは、キーンさんが『源氏物語』について語っている資料だった。

キーンさんは『源氏物語』を読むことで、当時の暗く恐ろしい世相(1940年、ヒトラーの軍隊がノルウェーデンマーク、オランダ、ベルギー、そしてフランスの半分を侵略していた)から逃避することができた、と語っていた。

その時の私のリュックには、まさに読みかけの『源氏物語』が入っていた。そして、私が『源氏物語』を読んでいるのも、そしてわざわざこうやってこのセンターを訪れ、キーンさんが話しているのを聴いているのも、同じ理由からだった。

私も、たとえ一瞬でもいいから、恐ろしい現実から目を逸らしたかったのだ。

戦争が起こっていた当時と、今の私の状況は全く比べものにならないが、それでもそう思うと私の目からは涙があふれた。

 

 ***

 

これで、私の新潟旅行記は終わりである。

帰りの飛行機の中でも、私は号泣してしまった。いろいろな感情がせめぎ合って、感傷的な気分になってしまったのだろう。それについて詳しいことは書かないけれど、おそらく、隣の席の女の子にドン引きされていたのではないかと思う。

 

 

おしまい

 

長い旅の記録(中編)  ――4泊5日新潟旅行記

f:id:hikidashi4:20190522194909j:image直江津からフェリーで、佐渡島の小木へ。そこからさらに島の南端の方にある宿根木へ向かう。

この宿根木という地域は島のもっとも南西部にあり、交通の便がいいとは言えない地域なのだが、江戸時代の面影が残っている集落ということで、私はぜひ行ってみたかったのだ。

 

宿根木へ行く前に、小木の観光案内所を訪ねる。荷物を預かってもらうだめだ。

受付の人がなにやらおかしな動作をしているのが、遠目にもわかった。ゴーグルのようなものをつけて、目の前でぶんぶん何かの端末を振っているのである。不思議に思いながら近づいてみるが、目の前に来ても彼女はこちらに全く気付かずにその動作を続けている。

「何をしてらっしゃるんですか?」

その一心不乱な様子がおかしくて、私は笑いをこらえながらそう尋ねてしまった。

すると女性はゴーグルのようなものを外して、どこかとんちんかんな調子で説明をした。

「あっ! これは! VRのですね、設定をしているんです! 設定ができていなかったので!」

島でVRを使った観光もしているのだろうか? その人のかもし出すおおらかさに、私は一遍で彼女が好きになった。

荷物を預かってもらう。記入した用紙を渡すと、彼女は用紙を二つに切って、片方を私に渡した。

「あっ! 違った、こちらでした!」

渡された用紙が逆だったのだ。私はその人に見送られて、小木を後にした。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20190522194522j:image宿根木ではまず、たらい舟に乗った。

たらい舟の船頭さんは、ひょっとしたらまだ10代かしら、と思うような若い女性だった。大きなたらいに、彼女と私だけが乗り込む。いろいろおしゃべりをしたが、彼女は私のプライベートなことは全く聞いてこない。そういうところが今の若い人っぽいな、と思った。

しかし彼女が不親切だったわけでは全くなく、私が尋ねると佐渡のことをいろいろ話してくれた。

 

海の水はびっくりするほど透明度が高く、雲の垂れこめた中をギーコギーコとたらい舟で沖まで出ていくと、あまりの寄る辺なさに旅情が湧いてくる。

「今日はとても波が静かですね。こんなに静かな時も珍しいです」

と、船頭さんは私に語った。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20190521223655j:image宿根木集落は町全体が昔の面影を残していて、とても興味深かった。公開されている建物に入ると、土地の人が人懐こく話しかけてくれる。交通の便があまりよくない土地のせいか、程よく空いていてちょうどよい。

町では、たくさんあるお地蔵様のどれにも、鮮やかな花が供えてあるのが印象的だった。

 

さて、アクシデントが起こったのは、小木への帰りである。私はバスを1本逃してしまったのだ。

バスを小木で乗り換えて、真野というところまで行くつもりだった。しかし、バスを逃してしまった今、これからタクシーを呼んで小木まで戻り、真野行きのバスに間に合うだろうか?

タクシー会社に電話してその旨を伝えてみると、ちょっと間に合わないと思う、との返事。私は「わかりました、そのバスには間に合わなくていいので、タクシーお願いします」と言った。幸いにも、一時間後にも小木から真野行きのバスがあることを調べていたためだ。

 

しかし、来たタクシーのおじさんは私が車に乗り込むなり、「バスには間に合わせるから」と言う。

私がびっくりしていると、さらに「バスを待たせているから」との言葉。

「ええ!? でも、そんな、私一人のために待ってもらうわけには」

「いや、大丈夫。間に合うから」

「いやいやいや、そんなわけには」

50歳くらいの人だろうか、やけにしっかりした断定口調である。パニックになっている私に、おじさんはちゃんと説明をしてくれた。

1、本土からの船が遅れていること

2、船から降りた乗客を乗せるまで、バスは出発しないこと

3、そのため、タクシーを飛ばせば間に合うだろうこと

4、船とバスとタクシーの運営会社はみんな同じであること

 「まぁ、もし先に船が到着しても、バスを待たせるけど」

あまりに淡々とそう言うので、私はそのおじさんがかっこよく見えてくる。どうしてそこまでしてくれるのだろう? 島の人はみんなこうなのだろうか?

 

小木の道路はほぼ信号がない上、車もほとんどないのでタクシーはぎゅんぎゅん走った。私は観光案内所に荷物を預けているので、そこで荷を受け取らなければならないことを言う。

案内所前でいったん降ろしてもらうと、VR装置をぶんぶん振っていた女性が「待ってました」とばかりににこにこしながら素早く荷物を渡してくれた。私はお礼を言って、再びタクシーに乗り込んだ。

(これは今でも不思議に思うことで、彼女はどうして、私が急いで荷を受け取りにくるとわかっていたのだろう? 事前にわかるはずはないのに……彼女は本当に「こうなることはわかっていました」とばかりに、すぐ荷物を渡してくれたのだ)

 

私はすぐにタクシーの料金が払えるように、お金を準備しておこうとした。が、こういう時に限って万札しかない。そのことを言うと、おじさんに「なんだと?」と言われた。このおじさんかっこいいなぁ、と思っていた私は、その口調にもちょっとときめいてしまった(彼も言いながら少し笑っていた)。

「ごめんなさい」

「まぁ、しょうがない」

おじさんは船乗り場に連結したバス停につくと、バス案内所に速足に万札を持って行った。「両替して。速く!」というおじさんの声が聞こえた。やはり、おつりがなかったらしい。ここまで特別サービスで飛ばしてもらったのに、さらに手数をかけさせてしまって、申し訳なさでいっぱいになる。

戻ってきたおじさんに、私は「細かいおつりはいらないです。ここまで急いでもらったので」と言ったが、おじさんは「そんなこと言いなさんな、これからもお金は必要になるんだから」とちゃんと全額おつりを渡してくれた。その言い方がいい。最後までイケメンな人だった。

私はお礼を言って、ぺこぺこしながらタクシーを降りた。

 

バス乗り場まで走って行くと、まだ目的のバスには誰も乗り込んでいなかった。本土からの船はまだ、着いていなかったのだ。

すっかり気疲れした私は、バスの座席に深く体を沈めた。しかし、このバスに乗り込めたのも、いろいろな人が手を尽くしてくれたおかげである。本当にありがたいことだった。一人の観光客のためにここまでしてくれるなんて、すごいなぁ、というのが素直な気持だった。

 

このことが今回の旅のもっとも大きなアクシデントであり、かつ思い出に残っている出来事となった。

 

 ***

 

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これは真野にある尾畑酒造。私は前を通っただけ。


真野は観光地ではないので、夜ご飯を食べるところがあるかはわからなかった。

私は食事にほとんどこだわらないので、旅先でもしばしばコンビニやスーパーでご飯を買って済ませてしまう。そういう人間なのだ。

しかし、バスに乗っているときに雰囲気の良さそうなお店を見かけた。宿からも近かったので、夕食はそこでとることにした。

 

店内に入って驚いたのは、そこの内装がとても素晴らしかったからである。

古民家をリノベーションした家屋なのだそうだが、暗さはまったくなく全体的に明るい。その明るさにも関わらず、室内には贅沢に木が使われているため、木目が浮かび上がってとてもやわらかい印象になっている。

そして、空間の使い方も異様に贅沢だ。テーブルとテーブルの間隔がとても広く、丸ごと一室には机も椅子も置いていない。ちょっとしたダンスだって出来そうな空間である。

 

私なんかが入ってよいお店かしら…と思ったが、案内してくれた店員さんが実に感じがよくカジュアルな対応なので、かろうじて引き返しはしなかった。

素敵なお店ですね、と言うと彼女は大げさに謙遜した。私と同じくらいか、あるいは少し歳下にくらいに見えた。

「コンサートなどもされているんですか?」

室内にピアノも置いてあったので、私はそう尋ねた。

「先週オープンしたばっかりなんです」

とんでもない、というように彼女は顔の前で大きく手を振りながら言った。その仕草がなんだか親しみ深いような気がして、「はて…?」と思う。

私は1人で食べる時はお酒は飲まない(単純に、お金がない)のだが、ここではなんだか飲んだ方がよい気がして、お酒をつけた。

 

お腹を満たして、さらにしたたかに酔っ払ってお会計に行く。気づいた料理中のコックさんに、少々お待ちくださいと言われた。

彼はスパゲティを作っており、私は急いでませんので大丈夫です、と言う。コックさんが皿に盛り付けているスパゲティの、緑色の春キャベツが鮮やかだった。

「お店、できたばかりだそうですね」

「そうなんです」

「元々地元の方なんですか?」

「いや、この前は沖縄に住んでいて」

沖縄! まさか、佐渡で沖縄という地名を聞くとは思っていなかった。

「へぇー、どうして佐渡に?」

酔って口が軽くなっている私は、そう尋ねる。

「子供に四季を感じさせたいと思って…沖縄はあんまり四季がはっきりしてないので。妻が元々沖縄出身なんですが」

妻。先ほどの、身振りがやや大げさな店員さんのことが思い出された。なんだか親しみやすく感じたのは、そのせいかもしれない。新潟の人たちは、あまり身振りが大きくないような気がするのだ。

雪国の人かそうでないかというのは、やはりどこかしらに出てくるものなのかもしれない。

「僕は東北出身なんですけど」

それも、なんとなく納得した。どこがどうとは言えないのだが…。それにしてもこの旦那さん、モデルさんかしらと思うくらい顔が綺麗な人である。

そうやって話しているうちに、先ほどの店員さん、もといこのお店の奥さんが戻ってきた。私はお会計をお願いする。

「沖縄のご出身だそうですね」

「はい、そうなんですよ!」

「寒くないですか?」

「寒いですよー! ほら、ヒートテック着てる」

彼女は自分の服の袖をめくって、中に着ている服を私に見せた。私はケラケラ笑って、「私も着てる」と言った。

「でも、他の人は今日は暑いっていうんですよ!」

旦那さんが横から「今日は暑くて汗かいてるよ」と言う。私はびっくりした。

 

 ***

 

お店からの帰り、道には人っ子ひとりいない。しかし、どちらの方向からも蛙の声が聞こえてくる。

途中、私は立ち止まって、暗闇の中でじっと田んぼを見つめた。しかし、蛙の姿はどこにも見えない。ただ、降るように声だけがずっと聞こえるのだった。

島の夜道をとぼとぼと歩く。真っ暗なわけではないのに、月がどこに出ているのかわからなかった。

 

長い旅の記録(前編) ――4泊5日新潟旅行記

f:id:hikidashi4:20190518224611j:image4泊5日の新潟旅行は、私の旅行の最長記録を更新した。とても楽しかった。

 

旅行に行って不思議なのは、結局覚えていたり印象に残っているのは、そこであった人との会話だとか、何気なく聞いた会話だとかであることだ。

私は決して話好きな方ではないし、人見知りなので自分から話しかけたりはないのだけど、それでも旅先では何かしら会話をする。

もちろん、新潟へは文学旅行目的で行ったのだから、それらが印象に残っていないことはない。けれど、そういうのはただ書いてもいまいち面白くないのだ。

なので、ここでは新潟で体験した面白い会話であるとか、人の印象であるとかを中心に記録しておきたいと思う。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20190518224639j:image新潟へは飛行機で行った。ありがたいことに、福岡→新潟直行の便が出ていたのだ。

福岡から新潟へ向かうのは、いったいどんな人々だろう? こう言ってはなんだが、一般的に新潟は、わざわざGWに行く観光地とは言い難い。

飛行機の中で私の隣に座っていたのは、上品なご婦人であった。席につくなり本を取り出して読みだしたので、私はそっと書名を確認した(湊かなえの『ユートピア』だった。ミステリーがお好きなのかしら? と思った)。

 

機内で飲み物サービスがあったので、ホットコーヒーを頼んで啜っていると、そのご婦人がビスコッティを分けてくれた。手作りだけど、私が作ったわけではないの、と言いながら。

「どちらへ行かれるんですか?」

と私は彼女に尋ねた。

会津若松。いつも新潟に降りてから行くの、それが便利だから」

私が新潟へ観光に行くと言うと、彼女は困った顔をした。いつも飛行機で新潟へ降りるが、毎回素通りできちんと街を散策したことがないのだという。

実は私も、会津若松と言われてすぐ思い浮かんだのが「白虎隊」だったのだが、それを言っていいのかよくわからなかったので、彼女の反応にはホッとした。知らないなら知らないと言っていいのだ、と思って。

 

飛行機が新潟へ近づいてきたので窓のカバーを開けると(まぶしくて閉めていた)、眼下が一面の田んぼだったので驚いた。本当に、見渡す限り、きれいな正方形や長方形が敷き詰められているのだ。

私は、本当に米どころ・新潟へやってきたのだという実感が湧いて高揚した。

「すごい。一面田んぼですね」

ご婦人も窓から下をのぞきこんで、越後平野ね、と教えてくれた。

 

  ***

 

f:id:hikidashi4:20190518224715j:image新潟空港は小さな空港だったが、新潟の街はハイカラで洒落ていて、いかにも港町という感じがした。

 

私は坂口安吾がとても好きなので、「安吾 風の館」は一種の聖地であるから、入る前からドキドキした。そもそも、新潟へ来たのもここが一番の目的地だったからと言ってもいい。

しかし、いざ入ってみるとすぐ、坂口安吾のご子息である坂口綱男さんらしき人が目に入り、それから何も頭に入らなくなってしまった。

貴重な安吾の直筆ノートや直筆原稿を見ても、先ほどの人は本当に綱男さんかしら? という思いが頭を離れない。事前に何度かお写真を拝見していて、お父さん(安吾)に本当にそっくりだなぁ! と思っていた方だっただけに、当人らしき人を見て、情報が処理しきれないのだった。

 

何気ない風を装って、綱男さんらしき人が話している傍まで行ってみるものの、どうしても直視できなかった。

庭に面した廊下で、風の館について解説をしていらっしゃった。内容を聞き取りはしなかったものの、意外に高い声で穏やかな話し方である。

安吾の肉声はYouTuveにあるので、私も聞いていたのだが、あの大柄な体と無頼派の作風に似合わず、声が高くてもごもごした話し方なのを意外に思ったのを思い出した。誤解されがちだが、安吾は人見知りで非常にシャイな性格だったらしい。

 

結局、ぽーっとしたまま風の館を出てきてしまった。記念館も生原稿も、生身のご子息(たぶん)の情報量に圧倒されて結局全然頭に入らなかった。本当にご本人かはわからないけれど。

ちなみに、坂口綱男さんは「安吾 風の館」の館長さんである。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20190518224754j:imageその後、「北方文化博物館 新潟分館」へ行った。ここは晩年の會津八一が永眠するまで暮らしたところで、現在は八一や良寛の書をはじめ、様々な書画などが展示してある。

私は會津八一の短歌のファンなのだが、実は八一の書の方はあまり良いとは思わない。書について何も知らないので、ただのフィーリングだけど。

しかし、良寛の書は面白いと思った。弱々しくさえ見える非常に線の細い字なのに、文字の最初は墨を含みすぎてボテッとしている。なんだかとても頼りない字なので、「りょ、良寛さま〜!」と、とても親しみが湧いた。

 

北方文化博物館分館の庭には、八一の歌碑がある。私は庭に下りさせてもらい、歌碑の写真を撮ってから庭を眺めた。

ここに来る前に、私は旧斎藤家別邸というお屋敷に行っている。そこがあまりに素晴らしいお庭だったので、この分館の庭も素晴らしいことは素晴らしいのだが、どうしても斎藤家の方と比べて見てしまう。

しかし、思いがけずこの庭で話しかけられ、そのお話がとても面白かった。

 

 話しかけてくれたのは年齢不詳の男性で、縁側に腰かけて庭を眺めていた。実は私は館内を見学している時からこの人を気に留めていて、それは彼が斜視だったからである。かつて好きだった人が斜視だったせいか、私はなんだか斜視の人が気になってしまうのだ。

 「そこに梅の木があるでしょう、倒れ掛かった」

と彼が指した先には、幹が倒れ掛かって少し苔むしている、大きな梅の木があった。

「これですか?」

急に話しかけられてびっくりしながらも見てみると、その木は幹の根元がざっくり空洞になっている。

「これはねぇ、そんな風になってますが毎年ちゃんと咲くんですよ」

「ほんとですね、根元の方がウロみたいになってる」

「そう、でも毎年ちゃんと咲くんですよ、まだ他の木や花が咲かないうちにね、この木だけ花をつけてるのを見る、それも乙なものですよ」

「へぇ…」

「ここは表にも梅の木があるんですね、だから表の木が咲いていたら、この梅も咲いている。こっちの梅の見頃もわかるわけです」

私はこの部分にもっとも心惹かれた。表の木が咲いたら、この庭の木も咲いている。花が一斉に開くという習性が、美しく思えるような気がしたのだ。

「あの家(旧斎藤家別邸)を見た後だと、どうしてもこちらの庭が見劣りしちゃうけど、こちらもなかなかどうして、悪くないですよ」

地元の人なのだろうか? 不思議な人だなぁ、と思いながら私はその人と別れ、北方文化博文館分館を後にした。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20190518224941j:image新潟・新津の次に、私は上越方面へ向かった。小川未明文学館のある高田は、駅から出た時から何かハッとするものがあった。赤レンガ造りの美しい、それでいて奥ゆかしい駅舎だったせいだと思う。

高田の地図をもらえないかなと観光案内所を探していると、それらしき建物があったので中に入る。無人かと思ったが、中に入ると人がいた。60がらみらしきおじさんである。文学館のことを尋ねると、丁寧に教えてくれる。

「どちらから?」と訊かれたので「福岡です」と答えると驚かれる。私は内心にやにやした。やはり、九州からの観光客は珍しいのだろう。

思い出して、「野ばら」の文学碑がある大手町小学校への道順も尋ねた。「学校の先生ですか?」と言われる。私は思わず、「違います」と言いながら笑ってしまった。たしかに、小学校への道順を尋ねる観光客というのはそうそういないだろう。

 

高田城跡の高田公園がとても美しかったので、私も城下町に住みたいなぁと本気で思った。港町らしい開放的な雰囲気の新潟と違い、上越ではすぐそこに山が迫っていて奥まった印象である。街並みは端正に整備されていて、緑が多く、雪を頂いてまだ白い山との対比が素晴らしい。

高田城跡は桜が有名だそうだが、桜と雪が同居する花見はさぞ綺麗だろう。九州では拝めない景色である。また、大きな蓮池もあったので、初夏もきっと素晴らしいのだろうなぁと思った。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20190518225422j:image直江津では、人と会話らしい会話はしなかった。

「赤い蝋燭と人魚」の人魚像を見るために、海岸沿いの公園へ向かう。日本海側の夕日は絶景である。人魚像の寂しそうなたたずまいも相まって、綺麗と言うよりは、どこか切なくなるような夕日だった。

そのまま海岸沿いを歩いて、翌日佐渡へ渡る汽船乗り場の下見に行く。万が一にでも、船に乗り遅れたら大変だからだ。

どんどん日が暮れる中、スマホの充電も切れてしまった。猫を抱いたおじさんが家の中から出て来て、猫をゆっくり撫でながら、時折話しかけているのを目にする。新潟の風は冷たく、私は速足で歩いた。

 

 ***

 

ちょうどこの日が、平成最後の日だった。明日目が覚めたら、新しい元号になっているなぁ、と思いながら、くたくたに疲れた私はすぐに眠りに落ちた。

 

文学、文学者を語る時、その社会面を考慮するべきか ーードナルド・キーン作品を読んで最近考えたこと

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12月だったのに、美しい紅葉が見られた銀閣寺。



私は日本文学者ドナルド・キーンさんのファンで、その作品の愛読者である。つい2ヶ月前(2019年2月24日)にお亡くなりになり、最近はその作品を読み返したり、まだ読んでいない作品を読んだりしている。

 

キーンさんは日本文学研究者の第一人者と言える方である(「海外で」ではなく、「世界で」と言っていい研究者だと思う)。研究対象は古典から近現代まで幅広く、日本文学の英訳も数多く手がけられている。

また、東日本大震災を機に日本国籍を取得し、日本人となったことでも広く名前を知られることとなった人だ。

 

しかし、それらの素晴らしい作品を読んでいて、こうも思ってしまったのだ。

キーンさんの業績や人柄を素晴らしいと言うことで、私もまたある種の偏見を持たれてしまわないか? と。つまり、キーンさんを素晴らしいと言うことで「日本文化、日本文学、ひいては日本人は素晴らしい」と賛美しているように取られたくないな、と私は思ったのだ。

 

 

文学作品、そして文学者も、そう意識するしないに関わらず、社会により属性を付与され、記号的に呼ばれたり扱われたりしてしまうことは、ままある。

ドナルド・キーンさんの例で言えば、1965年のフォルメントール賞(当時、影響力ではノーベル賞に次ぐと言われていた文学賞)選考会の時である。ベトナム戦争まっただ中でアメリカへの反対ムードが漂っていた当時、彼は「アメリカ人だから」という理由で演説をする前に何人かに席を立たれてしまう。この時、キーンさんは咄嗟にスピーチをフランス語に切り替えて難を乗り切った。それで、話を聞いてもらえたというのだ。(『ドナルド・キーン自伝』ドナルド・キーン 角地幸男・訳 より)

その人たちにとって、この時「アメリカ」という記号に背を向ける、という行為こそが大事だったということがわかる。彼らが示そうとしたのは、キーンさんという個人への姿勢でもなければ、そのスピーチしようとした内容への姿勢でもないのだ。

ただ、その属性への反対ポーズである。

 

 

そして、4月1日に新元号「令和」が発表されたことにも、私の考えは向かった。

「令和」の典拠は万葉集だという。私は短歌が好きなので、本来なら喜んでいただろうと思う。

しかし、現在のムードを考えると、私は素直に喜ぶことができなかった。現政権から、その漢字の意味を深読みしてしまったせいも、もちろんある。けれど、より正確に言えば、私は『喜ぶべきではないような気がして』しまったのだ。

 私もまた、「令和という新元号に賛同する」ことそのものについて、その政治的なポーズについて考えてしまったのだろう。

 

 

しかし本音を言えば、私は政治的な意思と言えるだけのものが、そもそも自分にあるかわからない。

元号の発表の直前、お友達さんからLINEのグループにて、新元号のアルファベットの頭文字は何になるか、というアンケートがあった。そこで私は深く考えず、「安久という元号を職場で聞いた、いい漢字だと思う」というわけで「A」と答えたのである。

すると、そのグループ内で「それは首相の頭文字と同じだよ」という指摘をもらい、そこで初めて私はそのことに気づいたのだった。人からそう言われるまで、全く気付かなかった。自分の政治への無関心さに愕然とした出来事だった。

 

結局のところ、私もキーンさんのスピーチに背を向けようとした人たちと同じなのだと思う。「ポーズ」を気にしているのだ。

本当に恐れているのは、自分が政治にあまり関心がないということが露見されることなのではないだろうか。自分の主張や考えよりも、どうふるまうべきか、そこからどう見られるか、を気にしているのだ。

 

 

私に政治的主張が希薄なことはわかった。だが、ここで仮に、私にしっかりした考えがあったらとしたら、どうだろう。

もし、私にちゃんとした主義主張があったとしたら、そのために好きな作品もその影響を考えて「好き」だとは言わない、という選択肢は正しいだろうか?

 

 

それは違うと思った。好きなものは好きだ。それとこれとは、別でいいと思う。

もちろん、例外もあるだろう。だが問題は、そこの違いを自分の中で明確にしておくことなのではないかと思う。また、ここは賛成だけどここは反対、と言えるムードを社会が形成することだ。

一つを見て決めつけてしまわず、その人その人の主張をきちんと理解し受け入れようという雰囲気が作られていることが大切なのだと思う。

私の例で言えば、私はドナルド・キーンさんのファンだが、それを公言することに手放しに日本人を称賛する意図はない、というように。大切なのは物事を表面的・記号的に捉えないことだと思う。

 

 

ある作家のファンになるということは、その作家が自分の一部になるということでもあると思う。

私は去年の12月、京都旅行へ行った(中学の修学旅行でも行ったことがあったが、ほとんど清水寺壬生寺へ行ったことしか覚えていない)。

行きたいところが山ほどある中、私は2日目の朝イチに行く場所へ、銀閣寺を選んだ。確かにそこには、教科書に必ず載っている銀閣寺の姿があった。

しかし、ドナルド・キーンさんの『足利義政銀閣寺』を読んでいた私には、それは「ドナルド・キーンが〈日本のこころ〉と思った銀閣寺」でもあった。

 

銀閣寺を作った足利義政は、時の最高権力者でありながら、政治的には全く無能の人であったと言われている。

応仁の乱で京都が焼け野原になった中、義政はここで後に日本的な美意識の基礎となる、粋を極めた東山文化を花開かせる。

 

確かに、義政は政治的には無能な将軍だったのかもしれない。しかし、それで銀閣寺の美しさを否定しようとは、全く思わない。

私は京都で銀閣寺を見た時、心からこう思ったのを覚えている。

「京都に来て、本当によかった」

自己中心的な人間は、誰かを助けてはいけないのか ーー映画『THE GUILTY』とジッド『田園交響楽』に見る自己欺瞞との戦い

2/22公開 『THE GUILTY/ギルティ』ショート予告 - YouTube

※この記事内では、 『THE GUILTY』のネタバレはしていませんので、安心してお読みください。ただ、できる限り事前知識がない状態で観てほしい作品ではあります。

 

友人のSさんが映画の『THE GUILTY』を観た、というので、2人で感想をあれこれ語り合った。そして話しているうちに、やはり私はこの映画がとても好きなのだな、と思った。

 

『THE GUILTY』は、警察の電話オペレーターが、かかってきた電話に対応する形で進むワンシチュエーション・ミステリーである。設定はとてもシンプルで、主人公は耳からの情報だけで事件を解決しようとする。

彼一人の姿が映し出されるのが映画の9割、ひょっとすると、もっと多くの時間を占めているかもしれない。主人公の焦り、苛立ち、そして悪戦苦闘の末の解放を、リアルタイムで視聴者も体感できる。私はとても好きな作品だった。

 

しかし、同時に、この作品を苦手な人もいるだろう、ということを強く感じた。

設定やストーリーから、そう言っているのではない。主人公のキャラクター造形に、イライラする人がいるだろう、と思ったのだ。

一言で言うと、人を助けようとするには、彼はあまりに自己中心的なのである。それこそ、「なんでわざわざ」と思うほどに、彼は一人で物事を解決しようとする。周囲が見えていない。他人に頼れない。能力はあるのに、現実に対して盲目的なのである。

 彼がやろうとしていることは人助けなのだが、彼自身の方にも問題があるのだ。

 

 

ここから私は、次のようなことを考えた。

もし、誰かを助けようとしても、その方法が間違っているならば、それは結果的に間違いになるのだろうか? 

被災地に千羽鶴を送るような、見当違いの迷惑になりかねないのだろうか?

 

 

ここで思い出したのが、ジッドの『田園交響楽』(神西清・訳)という本である。

これも自己中心的な人物が、他者をあわれみ助けようとして……というところから始まる話なのだが、この人物の盲目っぷりは『THE GUILTY』の主人公よりさらに始末が悪い。

 

田園交響楽』の主人公は、家庭を持つ牧師である。彼がとあることから、盲目の少女を家に引き取り育てていく、というストーリー。

最初は言葉さえ知らなかった少女は、教育の甲斐もあって、どんどん素晴らしい知性を身に着けていく。そしていつの間にか、牧師と少女は惹かれ合うようになるのだが……。

 

この本のすごいところは、牧師の一人称で、当の本人の自己欺瞞を描いている、ということだ。

彼は常に善行をしようと、弱きものを助けようと、そして慈愛をもって他者に接しようと、手記の中でそう書いている。しかし、事実は全くそうではない、むしろその反対であることが読者にはわかる。

教えを施そうとして実は他者の意見に耳を貸さないこと、人を許そうとして他者を縛っていること、そして人を分け隔てなく愛そうとして、まったくそうできていないこと。彼のすべてが、本人はそうと知らず、嘘で塗り固められていることが、読者にはわかるのだ。

 

その結果、善行として始めたはずの行いは、悲劇的な結末へと向かう。周囲の人すべてが、彼の自己欺瞞の被害者だとも言える作品である。

 

 

しかし、私はここで考えてしまうのだ。

最初からすべてが無駄だったのだろうか、と。確かに、牧師は自らの自己欺瞞に最後まで向き合わなかった。

けれど、この話の牧師は、最初は全くの慈悲から盲目の少女を引き取ったはずなのだ。その時の彼女は美しくもなければ知性も感じられず、しかも不潔で牧師の行為に対して人間らしい反応さえしなかった。彼が引き取らなければ、もしかしたら彼女は一生をそのまま過ごしたかもしれない。

それでも、<彼のような人間が>自分と縁もゆかりもない誰かを助けようなどとは、最初からするべきではなかったのだろうか?

 

 

答えはNOであると、私は思う。

被災地に千羽鶴を送る行為を例にしてみたい。被災者のために何かをしたい、という気持ちは否定される べきものではない。問題は、その行為が現実と噛み合っていないことなのだ。

しかし、そこを<間違って>千羽鶴を送ってしまったとする。そして被災地から「千羽鶴を送られても現地で生かせない、もっと実用的なものを送ってもらいたい」という返答が来たとする。

もしここで、ムッとして「しかし、それを送ったのは私の善意である」と言ったら、それはその人が現実と向き合えていない証拠だ。

しかしここで、「そうか、千羽鶴は役に立たなかったのだな」と思ったのならば……これは事実を受け止めていることになる。さらに「では、今度は現地の人に役に立つものを送ろう」と思えたならば、それは立派に現実と向き合っていると言えるだろう。

 

 

このことから、『田園交響楽』の主人公は、自らの自己欺瞞に敗れたのだと言える。

彼は現実よりも自分の願望を優先し、しかもそれを潔白なものにしようとした。本当に誰かを助けたかったならば――彼は自分の願望を優先するべきではなかったのだ。

その点、『THE GUILTY』はどうだろう。彼は誘拐事件の被害者を救おうと奮闘する。しかし、上手くいかない。彼は現実に対応するため、自身の自己欺瞞に向き合わざるを得ない。

 

葛藤、苦しみ、苛立ち、焦燥――それが私を熱くさせる。誰かを助けたいならば、現実と向き合い、自己欺瞞と戦わなければならない。

私は、『THE GUILTY』にはそのドラマがあると感じた。もしまだ観ていないという方へ、この映画おすすめします。とても面白かったです。