毎日違う土地で眠りたい

「わたしたちはそういうふうにますますなって行くんじゃないかと思うのよ、ヘレン。人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたしはしまいには、どこかの場所がわたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする」――『ハワーズ・エンド』(E・M・フォースター/吉田健一・訳)

【島原半島1泊2日】後編 坂口安吾とキリシタンの城跡の巻

f:id:hikidashi4:20220514194749j:image

島原半島2日目は、いよいよ原城島原の乱キリシタンたちが籠城し、幕府軍に敗北した城)跡へ向かう。

目が覚めると、昨日の冷たい雨が嘘のように天気は快晴だ。気温もかなり上がっている。昨日は長袖の服を着ていたが、もう一枚は半袖の服を持ってきていたので助かった。私は宿をチェックアウトすると、早々に南島原行のバス停へ向かった。

バス停のすぐ後ろでは、巨大なリゾートホテルらしき建物が建設中である。普請の音を聞きながら、観光地として雲仙はこれからも大丈夫なのだな、と安心する。

これは地方を旅していると感じることだが、現代は基本的に、客単価が高いリゾート地の方が景気がいいらしい。私は巨大資本が好きではないが、庶民に親しまれていたかつての観光地がシャッター街となっている様を見るといつも胸が痛い。その土地の人びとの生活が何より大事である。

バスが来て乗り込む。早朝のことで、客は私しかいない。席に座ってきょろきょろしていると、運転手さんから「このバスは諫早(いさはや)には行きませんよ、大丈夫ですか?」と声を掛けられた。

「あ、はい大丈夫です」と私は返事をし、降りるバス停を告げる。運転手さんも安心したようだ。実はこの島原旅行の最中、もう一度バスの運転手さんから「このバスで合っていますか?」と声をかけられた。私が明らかに土地の人間ではない(泊りがけの荷なので、すぐにそれとわかる)ので、バスの運転手さんは心配してくれるのだろう。一度バスを乗り逃すと、次のバスが来るのが一時間後という場合が多いのも大きい。

しかし、わざわざ声をかけてくれるのは、やはりとても優しいことだと思う。これも地方を旅する醍醐味と言えるだろう。

 

 

f:id:hikidashi4:20220514194212j:image

バスに揺られて、原城跡が近づいてきた。荷を置いてから戻って来るので、私はバスに乗ったままその城跡を見つめる。

いわゆる、天守閣や石垣、あるいは堀などという「お城」の要素は全くない。ただ、かつての城壁の跡が緑に覆われているのが見えるだけで、むしろそれは古墳跡に似ている。周りにも何もない。ここでかつてキリシタン一揆があり、何万人という人たちが死んだのだと知らなければ、おそらくただのだだっ広い退屈な場所だろう。

私は二つ先のバス停で降りて、原城図書館のコインロッカーに荷物を入れた。必ず戻って来るので、と図書館の人に荷を置く許可をとり引き返す。民家の並ぶ道路を歩いた。まだ午前中ということもあり、車も少ない。

こんもりした城跡が見えてくると、その敷地の大きさに改めて気づいた。ああ、大きい。約2万数千人が籠城し戦った城か、と思う。

敷地内へ入っても、しばらく変わりばえのない風景が続いた。私がてくてく歩く横を、車が抜けていく。本丸跡まで車で行けるようになっているのだ。これは後でわかることだが、道路を引けるほど、この城は一揆の後再建できないよう徹底的に破壊されたということなのだった。

本丸跡よりも先に、海が見えた。よく晴れているので、青い水面が美しい。なんでもない風景であるが、綺麗だなぁと思い私は写真を撮った。

 

 

f:id:hikidashi4:20220514194427j:image

私が南島原の地を訪れた直接のきっかけは、坂口安吾である。「堕落論」や「白痴」、「戦争と一人の女」などの代表作で知られる、戦後無頼派の作家だ。

彼がキリシタンに興味を持ち、長くこのテーマに取り組んでいたことは、あまり知られていない。というのは、熱心に取り組んでいたにも関わらず、安吾キリシタンものの大作をとうとう仕上げることができなかったからだ。

しかし、その断片は彼が残した様々な文章から知ることができる。「イノチガケ」「島原の乱雑記」「島原一揆異聞」「島原の乱(草稿。生前未発表)」「わが血を追う人々」など。

また、安吾は長崎を2度訪れている。1回目は1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まる寸前のことだ。2回目の訪問は1951年(昭和26年)である。晩年、安吾は日本各地を訪れ巷談師的な語りで紀行文を書く。2回目の訪問もその一環なのだが、長崎の回がとても感傷的なことには少し驚いた。

1回目と2回目の訪問の間に流れる10年という歳月と、戦争が終わったという時世もあることだろう。しかし、そこには彼の人間を見つめる悲しくも切ないまなざしがある。迫害を受けた異教の人びとだとか、原爆を落とされた都市だとかではなく、もっと根本的な人間の切なさに、私は安吾が自分を重ねているように思えた。

彼はなぜ、キリシタン史にこれほど興味を持ったのだろう? 安吾も訪れた原城跡に行ってそれがわかるとは思えないが、せっかくだから行ってみようという気になったのである。

 

f:id:hikidashi4:20220514194143j:image

原城跡は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産に登録されている。しかし、私が訪れたのはまだ午前中の時間帯だったこともあり、城跡に人影はまばらだった。

本丸跡はさすがに城の面影が残っている。島原の乱が起こったのは、1637年(寛永14年)、江戸幕府将軍三代・家光の頃だ。1612年にはすでにキリスト教の禁教令が発布されており、1616年に入封した松倉重政の圧政とキリシタンへの弾圧によって、領民の不満が爆発したものが発端と言われる。

江戸幕府からは一国一城という掟が下っており、島原藩には日野江城があったため、原城は当時すでに廃城だったそうだ。キリシタンを含め、一揆勢はここに立てこもり3か月もの間籠城戦を行った。九州一円のキリシタンの蜂起を期待しての籠城だったらしいが援軍は来ず、結果として幕府軍に敗北する。しかし、籠城の期間の長さからして、いかに一揆勢が幕府軍を苦しめたかがわかるだろう。一揆勢・幕府勢あわせて、4万人もの死者が出たそうである。

私はそんな島原の乱の歴史を思い返しながら、崩された石垣ばかりが残る城跡を見て回った。三方を海に囲まれ、4月末の新緑がただただ美しいばかりだ。老年の夫婦とお孫さんらしき小さな子供が、かつての城壁の縁に立って海を眺めている。きれいだね、と女性が声をかけているが、女の子は地面の草の上に座り込むと、おもちゃを広げて遊んでいた。

 

f:id:hikidashi4:20220514194519j:image

天草四郎像を見てから、私は来た方向と反対側から城跡を下ることにした。海に続く長い坂道を下りていると、すーっと音が消えていき、あれ?と思う。それまでは鳥の声やら虫の声やらが響いていたのに、急に無音になったのでおかしいなと思ったのだ。しばらくすると、浜に打ち寄せる波の音が聞こえてくる。あ、海に出たからかなと思った。

坂を下りきったところに、案内板がある。「天草丸」とあった。おや。これは安吾が書いていたところだ、と思って私は不思議な縁を感じた。

私は城趾の入口を探して道にまよひ、昔は天草丸といつた砦の下にあたる浜辺の松林で、漁夫らしい人に道をきいた。返事をしてくれなかつた。重ねてきいたら、突然ぢやけんに、歩きだして行つてしまつた。子供達をつかまへてきいたが、これも逃げて行つてしまつた。すると、十四五間も離れた屋根の下から、思ひもよらぬ女の人が走りでゝ来て、ていねいに教へてくれた。宿屋で、何か切支丹のことを聞きださうとしたが、主婦は、私の言葉が理解できないらしく、やゝあつてのち、このあたりではキリスト教を憎んでゐます、と言つた。

――「島原の乱雑記」坂口安吾 より

安吾の文章からは、一揆の悲惨さよりも、信仰の悲しさが伝わって来る気がする。しかしそれは、宗教そのものがむなしいという意味ではないだろう。私には、彼は人間に(自分に)そもそも救いはあるのかということが知りたかったのではないかと思えた。

 

 

 

f:id:hikidashi4:20220514194541j:image

その後、私は有馬キリシタン遺産記念館を見学し、さらに島原に出て島原市内を観光した。島原市は普段は閑静な町なのだろうと思われるところだったが、ゴールデンウィーク中ということもあり、観光客の姿も見えて賑やかだった。

しかし、それらはとうとう私の心を動かさずに終わった。島原の町は私を歓迎してくれたが、それよりも私は、あの何もないただ美しい海が広がっているだけの原城跡の方が心に残った。

 

実は私は、今回の旅行に行く前に妙な話を聞いていた。私が、今度島原に行くんですと話すと、たまたま「私も行ったよ」という人がいたのだ。その人は、原城跡に行って気分が悪くなったのだという。

「気分って?」

「なんだか体がおもーくなって、気分が晴れないというか。変なものを連れてきちゃったみたい」

そして彼女はその後、神社へ行ってお祓い(?)をしてもらったのだそうだ。すると、体の重さは良くなったのだという。

これはつまり、原城跡に怨念のようなものが残っていて、彼女はそれに引きずられてしまった、という文脈であろう。それは私もわかる。何しろ、血みどろの籠城戦で4万人が死んだ場所だ。

しかし、そういう物語を私は良しと思えなかった。安吾はとうとう、島原の乱についての物語を完成できずに終わったのかもしれないが、彼の断片的な物語は私をその地へと呼んだ。それが今回の旅で、怨念だのに書き換えられてはたまらないな、というのが正直なところだった。

 

今こうやって島原半島の旅を振り返ると、本当にいい旅行だったな、何より天気に恵まれてすごく幸運だったな、と思う。どうやら私は、私なりの物語でこの旅を終えることができたらしい。

まぶしいほどの新緑と青い海に囲まれた原城跡は、これからも私の中で、とても美しい場所として記憶に残り続けることだろう。

 

 

【島原半島1泊2日】前編 麗しきクラシックホテルの巻

f:id:hikidashi4:20220505151319j:image

私の場合、旅には必ず目的があり、それは目的地にある。つまり、誰かと行くだとか、あるいは自分の中に目標があるだとかではない。もちろん例外はあるが、目的地がどこでもいい旅は基本的にしない。

今回は長崎の島原半島への旅だ。同じく北部九州といっても、福岡からはなかなか行くのに時間がかかる地域である。今回行くことができて、とても嬉しかった。

出発時は大雨だったので、最初は、この旅はどうなるのだろうと気が気ではなかった。しかし、蓋を開けてみれば、天候に恵まれた素晴らしい旅となったのだからわからないものだ。旅の思い出がすべて美しいわけではないが、素晴らしい旅は積極的に素晴らしいと言っていきたい。

そして、そういう体験が積み重なるのは嬉しいことだなぁと思う。

 

f:id:hikidashi4:20220505152035j:image

島原半島の1日目は、雲仙に向かった。雲仙という名前は美しい。出雲や東雲などもそうだが、「雲」という字が入っている地名はそれだけでどこか幻想的である。

ただ、雲仙へ向かった時はかなり霧が出ていて、本当に雲の中へ入っていくようだったので驚いた。私が乗っていたのは、いわゆる観光バスではなく、ごく普通の路線バスである。それがぐいぐい霧深い山を登って行く。到着時刻間近になっても山の中を走っているので、本当にこのバスで合っているのかしらと不安になった。

しかし、道が開けたと思ったら、もうそこは上品な避暑地だった。美しいレンガ組の建物、広い道、濡れたような若葉の木々に上品さがあふれている。雲仙は標高約700mの位置にあり、長崎の奥座敷と言われてきたところだ。海も近く、関東で言うところの箱根のような土地らしい。そして、温泉街である。

窓を開けていないのに、霧に混じって硫黄のにおいがした。わーっと思う。先ほどまで森の中を走っていたのが嘘のように、あたりに湯治客の姿が見えた。地獄と呼ばれる源泉のすぐ脇をバスは走る。大変な湯気だ。

硫黄のにおいに包まれ、私は異国にやってきたような気持ちになった。

 

f:id:hikidashi4:20220505152059j:image

バスを降りると雨は小降りになっており、かろうじて傘をささなくても大丈夫なくらいである。びっくりするくらい運がいいな、と思う。

しかし、寒い。宿に荷物を置いて、昼食をとった。温かいちゃんぽんが美味しい。お腹が満たされると気合が入った。

雲仙に来た目的は、雲仙観光ホテルというクラシックホテルを見るためである。私は歩いてホテルのある場所へ向かった。そうやって歩いている間にも、雨が上がっていく。たどり着いた時には、空に少しだけ晴れ間がのぞいていた。

ちょうど正午を少し過ぎたくらいの時刻である。昭和10年創業のクラシックホテルのアプローチに立って、私はスイスのシャレ―様式を取り入れたという建物を正面にのぞんだ

みずみずしい並木がすーっとホテルに続く道を引いて、その奥に想像していたよりもずっとこぢんまりしたかわいい建物がある。シンメトリーな道の真ん中に立って、私は写真撮影をした。周りには誰もいない。これだけでも大変贅沢な時間である。

しかし、撮影をしていると後ろから高級車がやってきた。道を開けて、私もホテルの敷地に入ることにする。

ホテルの車寄せに、タキシードのような制服を着たホテルの人がおり、車を誘導していた。怖い顔の人だ。いかついという意味でなく、端正な顔立ちのお兄さんなのだが、眉間に皺が寄ったような表情をしている。

高級なクラシックホテルは大抵どこもそうだが、ノコノコ徒歩で来る人間などいない。誰もが高級車に乗って、ホテルの前まで車をつけて、初めてそこで足を地に下ろす。1人でスニーカーで歩いてきた私は、怖そうなお兄さんに内心ドキドキした。

「あの、見学をしてもいいですか?」

先に来た車の客を誘導し終わった彼に、私は恐る恐る尋ねた。彼は眉間に皺を寄せたような表情のまま、「ロビーだけならいいですよ」と言う。明らかに歓迎されていないが、私がこのホテルに見合うだけの人間でないのでしょうがない。

もちろん私は、事前にこのホテルに電話をして、見学だけでも中に入っていいことを確認している。しかし、ここでお兄さんにそれを言っても無粋だ。軽く目礼をして、私は中に入った。

 

f:id:hikidashi4:20220505152418j:image

「日本クラシックホテルの会」という会に、雲仙観光ホテルは名を連ねている。この会に認定される条件は、第二次世界大戦以前に建てられその建物を維持(改修、復原を含む)していること、文化財や産業遺産などの認定を受けていることなど。現在9ホテルで結成されており、雲仙観光ホテルは九州では唯一の認定ホテルである。

昭和10年創業、今年で87歳になる老舗だ。昔の建物は、外に対して中が暗い。ずっしりとした入り口に踏み出すと、しかし大輪の鮮やかな花が活けてあった。みずみずしい花に視線を引きつけられてから、私はロビーを見回した。

不思議な造りのロビーだった。横に長く、半地下のようだが私は一度も階段を降りていない。気づいたのは、正面がすぐ階段になっていること、ロビーが続く先もまた階段になっていて上がった先がラウンジになっていることだ。

このロビーが船をイメージして作られたということを、私は事前に本を読んで知っていた。しかし、いざその空間に来てみると、想像以上に船の中にいるようである。あたりを見回す。統一された空間がぬくもりを持ってたたずんでいる。半地下のようなのだが、外からの光が自然に差し込んで、実にやわらかく感じられた。

先に入ったお客さんは、いつの間にかどこかへ行ってしまっていた。家具も調度品も素晴らしい。西洋風なのだがどこか素朴で、モダンさとなつかしさがないまぜになって調和している。ロビーの奥に書が掛けてあった。「博愛」とあり、献辞は「橋本先生」、そして署名は「孫文」とある。ああ、孫文と交流があったのだなと思った。

雲仙観光ホテルは、都会と言うと東京や関西よりも海外、特に上海からの客が多かったのだという。戦前の時代から海外の賓客を迎えてきた歴史が、こんなところにも表れていた。

ロビーの階段を上ってラウンジに出ると、正面にレストラン、そして右手にバーがある。ちょうど食事時であるが、人気(ひとけ)はなく静かだ。レストランの前にホテルの人が立っている。声を掛けられた。

「お食事ですか?」

「いえ、見学だけなんですけど……」

するとこちらのお兄さんは、なんと閉まっているバーを指して中に入っていいですよと言ってくれた。私はびっくりする。

「いいんですか?」

「どうぞ」

背の高いお兄さんがドアを開けて通してくれた。私は内心「やったー」と声をあげる。こぢんまりしているが、こちらも内装や調度品が素晴らしい。お兄さんはカウンターを指して説明をした。

「以前は、あの壁の方までカウンターが続いていたんです」

「へぇー」

「でもそれ以外はほぼ創業当時のままですよ。このモザイク模様の床も当時のものです」

私が写真を撮ってもいいですかと聞くと、どうぞと言われた。こちらのお兄さんはとても親切でよかった。私はありがたく写真を撮る。バーを出ると、今度はレストランにも入っていいという。

「いいんですか?」

「ええ、でもお客様がお食事をされているので、写真はお控えください」

雲仙観光ホテルのレストランダイニングの内装が素晴らしいことは、何度も写真を見て知っていた。通してくれるなんて思っていなかったので、私は感激してしまう。

広々とした200畳のダイニングは圧巻だった。横に長いロビーとは対照的で、とても明るく天井が高い。吹き抜けのような空間の広さである。淡いグリーンに真っ白なテーブルクロスがかけられたテーブル、美しい照明と細部まで凝った内装が素晴らしい。

「この寄木の床も創業当時のものです」

昭和10年ですよね? うわー」

広いレストランでは、2組が食事をしていた。この日はGWの連休初日。チェックインするなら、今日の15時以降からであろう。私はもっとも人が少ないと思われるこの日のこの時間帯を狙ってきたのである。ちなみに、このレストランは完全予約制なので、この時私は食事したくてもできないのだった。

レストランを出て、私はホテルの人にお礼を言った。なんとも素晴らしいお土産になった。私はそれからもしばらくロビーと館内ショップを見学し、ホテルを後にした。本当はこのホテルの図書室も見学したかったのだが、残念ながらそこまで見せてくださいという勇気はなかったのだ。いつか、またの機会にとっておくとしよう。

 

f:id:hikidashi4:20220505152525j:image

それからは、雲仙ビードロ美術館へ行ったり、雲仙地獄の観光をしたりした。どちらも楽しかったが、やはり私の雲仙でのメインは雲仙観光ホテルである。

ビードロ美術館の所蔵品はかなりの価値があるのだろうと思えるものだったが、どうにも展示が無造作に見えてしまって困った。あのホテルの統一感と展示の素晴らしさを見ると、やはり価値観を作り出すのはセンスなのだなぁと思う。

観光をしている間に、また雨が降り出し夕方には大変な寒さになった。雲仙は温泉地なので、私は温泉のある銭湯に行こうと思っていたが、これでは湯冷めしてしてしまいそうだ。温泉は諦めることにした。

普通ならガッカリしてしまうところだろうが、私は特に温泉にこだわりはないので、まぁ仕方ないくらいの感覚である。

面白かったのは、銭湯に行こうと思って雲仙温泉観光協会というところを訪ねた時に、一般人のような男の子(20歳そこそこくらい)が対応してくれたことだ。

建物に入ると、紐のある帽子をかぶった青年が気づいて対応してくれたのだが、彼は係りの人でいないので地図がないという。見れば、奥で係りの人らしき女性が電話対応をしていて手が離せない様子だ。

「僕はここの人ではないんですけど…」と青年はしきりに言いながら、オススメの銭湯を3つくらい教えてくれた。地図も発見できて、印をつけてくれる。詳しいじゃないか、君は一体何者なのだ、と思う。

「温泉に来られたんですか?」

「うーんと、普通はそうなんでしょうね」

青年が不思議そうな顔をするので、私は雲仙観光ホテルのことを話した。そういう目的は珍しいですね!と言われる。この子も私のことを変なヤツだと思っているかもしれない、と思うとおかしかった。

というわけで、温泉に入れないのは仕方ないが、せっかくあの青年に教えてもらったことが活かせず、それだけは少し残念だった。

 

早起きをしたので、夜も早く寝ようと床を敷く。驚いたことに、隣の部屋のテレビの音が聞こえた。随分音量を高くしているようだ。

私は寝たかったので、対抗してスマートフォンで音楽を流すことにする。タイマーつきでなぜかショパンピアノ曲を流しながら眠りについたが、たぶん碌に聞いていなかっただろう。

恐竜と禅寺とだるまちゃんの旅 ―福井旅行2泊3日その④

f:id:hikidashi4:20211205203023j:image

福井旅行最終日は、いよいよ曹洞宗大本山永平寺へ行く。私はこのお寺の朝課に参加する予定だった。なんと、集合時間は朝の4時20分である。

それは、朝というよりも夜中といった方がいい時間だ。私は車の運転ができないので(ペーパードライバーである)、本来なら参加そのものが無理なはずだった。

しかし、旅館に宿泊の電話をした際に、宿の人の方から「ご希望なら、永平寺の朝課にお送りしますよ」と言ってくれたのだ。とても悩んだが、こんな機会は二度とないかもしれないと思い、思い切って参加してみることにした。

 

前日、旅館のお姉さんと打ち合わせをする。

「ここを3時45分に出るので、下で待っててくださいね!」

ひえー、と私は内心悲鳴を上げた。明日は3時起きだ。それは午前というよりも、午後27時と言った方がいい気がした。

このお姉さんはとても気さくで話好きで、しかも美人であった。おかげで、いろいろな話を聞くことができた。

意外だったのは、お姉さんが永平寺への朝課へ送った人はここ数ヶ月のうちだけでも3人おり、それがみな一人旅の女性だったということである。

「えっ、すごい。行動力ありますね」

「ねー、でも女の人の方が、行こうと思ったら行っちゃうのよ!」

確かにそういうものかもしれないなぁ、と思った。とはいえ、その人たちはいったいどういう目的で永平寺の朝課に参加したのだろう。お姉さんに聞いてみたが、そこはわからないという。

「仏教に興味があるんじゃない? 心を安らかにしたい、みたいな……」

「悟り系女子?」

「悟り系女子!! そうかもね!!」

私は大学で宗教学のゼミを選択し、一休宗純禅宗の僧侶。ただし、一休は曹洞宗でなく臨済宗の僧侶である)で卒論を書いたので、自分で言っておきながら悟り系女子と一緒にされるのはちょっとたまらんな、と思ってしまった。そこで、つい大学のことをお姉さんに説明してしまう。わが身の小ささである。

「へぇー! 禅を勉強してた人が来たのは初めてです!」

そうなんだ……とこれも意外である。一人くらいはいるかな、と思っていたのだが、そうでもないようだ。

ともかく、永平寺へはお姉さんが送ってくれるので安心だ。問題は、私自身がきちんと起きられるかである。行く前から、緊張することしきりであった。

 

 ***

 

朝、3時40分ごろに旅館の玄関を出ると、お姉さんが車をスタンバイしてくれており、私たちはスムーズに出発した。

道中もいろいろとお話をする。当たり前だが周囲は真っ暗で、すれ違う人も車もない。この時点ですでに、非日常の体験である。お姉さんも、この時期(晩秋)に送り迎えをするのは初めてだという。やはり、寒くなると参加者は少なくなるらしい。

話しているうちに、永平寺についた。

車から出ると、そこは闇の中だ。街灯に照らされて、永平寺の入り口がぼんやりと見えている。左手に永平寺の寺院があり、淡い明かりが灯っているのはわかる。しかし、正面と右手はほとんど闇に溶けていた。何があるのかもよくわからない。

「えっ、真っ暗。こわいですね」

「ほんとや~、なんか入り口は明かりがついてるらしいけど見える?」

「ええ…? どこだろう……」

2人で車を降り、きょろきょろするがわからない。

入り口の「永平寺」と大書きしてある岩の前で、お姉さんが記念撮影をしてくれた。どうポーズをつけたらいいのかわからないので、私はピースをする。LINEで送るよ~とお姉さん。しかし、相変わらず周囲は真っ暗である。

「ここでいいのかな。こわ!」

 入り口から中に入る。お姉さんも一緒についてきてくれる。なんと、彼女はこの時間帯に永平寺の中に入るのは初めてだという。いつもは車でお客さんを送って、そのまま帰っているのだそうだ。こんなところに一人で置いていかれたら、怖くてたまらない。私はお姉さんが一緒に来てくれて、本当によかったと思った。

しかし、中に入っても入り口はわからなかった。この時点で、時刻は4時を少し過ぎたくらいだ。早く来すぎたのかもしれない。寒いので、車に戻って車内で待つことにした。

4時10分になったくらいで、お姉さんと別れる。その場で車を名残惜しく見送った私は、今度は一人で永平寺へ入って行った。すると、先ほどは真っ暗だったところに明かりが灯っている。門が開いている!

しかし、門をくぐり中に入っても、人がいない。しばらく待っていても誰もやってこないので、勝手に人の気配のする方へ歩いて行った。

室内に入り、靴を脱ぐ場所までやってきて立ち止まる。ずらりと靴箱が続いていた。とても大きな施設という印象である。東京で、国立能楽堂へ行った時のことが思い出された。

奥の方に、雲水さんの姿が見えた。こちらへやってくる。とても若く、まだ20代前半から中頃に見えた。ご予約の方ですかと言われたので、そうですと答えると、靴箱の一つに案内される。私の名前が「ご予約」として書いてある紙が目に入った。どうやらここでよかったらしい。靴を脱いでスリッパに履き替えると、永平寺の中に入った。

 

中身もやはり、能楽堂の入り口に雰囲気が似ているなぁと感じた。余計なものがなく、清潔でひろびろとしている。受付で用紙に記入をした。受付の雲水さんも、非常に若い。その方は名札をつけており、名札には下の名前だけが書いてあった。とても丁寧で感じの良い対応をされる。

時間までしばらくお待ちください、と言われる。私の他に一般人の姿はないが、さきほど靴箱に複数の名前があったので、まだ数人は確実に参加者がいるはずだ。待っていると、すぐに人がやってきた。しかし、その人数が思っていたよりもかなり多いのでびっくりする。二十人はいると思われた。おそらく、禅房に宿泊している人たちなのだろう。

その人たちの受付に時間かかるのではと思われたが、すでに用紙の記入は住んでいるらしく、スムーズに終わる。それらの人びとを案内した雲水さんに、私は目を留めた。女性の雲水さんだったからだ。寺院の中には今も女人禁制の山があるが、永平寺では女性も修行をしているらしい。そうであるべきことだが、私は自分の目で女性の雲水さんを見ることができて嬉しかった。

最初に対応してくれた雲水さんが、私を呼ぶ。なんだろうと思っていると、二列に並んだ列の先頭に来てくださいと言われて驚いた。どうやら、一番最初に来たので先頭ということらしい。恐れ多いと思うが、辞退するのもおかしいので、おずおずと従う。

さぁ、いよいよ朝課である。

 

雲水さんについて行って、大きな座敷に通された。畳敷きの部屋に長椅子が並んでいる。最初は、ここでお経を読むのかしら?と思ったが、空調が入っているので違うなと思う。ホワイトボードに「本来本法性 天然自性身」という言葉が書いてあった。曹洞宗の宗祖・道元が深く考えたという言葉である。

コートを脱いでしばらく待っていると、これまた若い雲水さんが入って来た。彼も、果たして三十歳になっているだろうかという年齢に見える。みんな若いなぁ、と思った。

雲水さんのとても丁寧なあいさつで話は始まった。あまり抹香臭いお話はなく、始終柔和な調子で、とても腰が低い。私はへぇーと興味深く聞いていたが、実はもっとも面白かったのは、参加者への質問であった。

雲水さんはまず、「ここで我々は何をしていると思いますか?」という質問をする。参加者は指されて答える。生活を律している、自身を整えている、修行で自分を見つめなおしている……。雲水さんはそれらにひとつひとつ頷き、「そうですね、その通りです」という。

「我々はここで、365日、毎日修行をしています。みなさんが言われたようなことを守るためにも、ひとつひとつ、掃除をするのも、食べるのも、そして寝るのにも作法がありますので、寝ている間も修行をしていると言えるでしょう。なので、本当に、24時間が修行です」

そして食事でのエピソードを披露などして、次の質問に移った。

「では、どうして修行をしているのだと思いますか? それは何のための修行なのだと思いますか?」

すごく本質的な質問だなぁ、と私は思った。どきどきして、参加者の回答を待つ。指された人の答えは、次のようなものだった。

いわく、日々を幸せに過ごすため、よりよい生活を送るため、心を穏やかに保つため……などなど。これらの答えに、私はびっくりする。自分の考えていた答えと、あまりにも違っていたからだ。

もし私がこの質問に答えるならば、それは「釈迦の悟りを自身でも得るため」だと答えただろう。なぜ禅宗では、座禅をするのか。それは、釈迦が悟りを得るまでに、座禅をしていたと言われているからだ。つまり、「仏陀の真似をして、私たちも座禅をし、悟りを得よう」ということらしい。だから、禅宗では座禅、及び修行を重んじるようである。

そして、そもそも釈迦が出家をしたのは、この世が苦に満ちていたからだ。なので、修行で「日々を幸せに過ごすようになる」だとか、「よりよい生活を送る」という答えに、私はびっくりしてしまったのだった。私はこの世は苦に満ちており、それは変わらないという世界観を設定していたので、根本的な世界のとらえ方が違うのだなぁ、と思ったのだ。

雲水さんは、やはり参加者それぞれの回答を「そうですね」と肯定する。禅の言葉である「日々是好日」という言葉を私は思い浮かべた。この言葉は人口によく膾炙(かいしゃく)しているので、一般的にはそのイメージが強いのかな、と思う。雲水さんは参加者のイメージを受け入れつつ、曹洞宗なりの修行の説明をした。

細かいことは覚えていないのだが、ホワイトボードに書いてある「本来本法性 天然自性身」という言葉の道元の解釈が説明されたように思う。本来人間は仏であるのに、どうして修行をするのか、その考えはむしろ逆で、私たちは仏であるからこそ、修行し続けることによって仏となれるのだ、というようなことだった。私もにわか仕込みの勉強しかしていないので、もし間違っていたらごめんなさい……。

ともあれ、この雲水さんが「なぜ修行をするのか」という問いを投げかけたことは、私にストレートに刺さった。その答えは、私自身がどうして禅宗に興味を持つのか、ということの答えでもあったからだ。

 

 ***

 

その後、私たちは朝課のために法堂へと向かった。

この時、私は列の一番前で本当によかったと思った。永平寺の法堂までは、かなりの階段を上らなければならない。夜明け前のまだあたりが闇に包まれている中、その階段がずっと続いている様がとても壮観なのだ。まさに高みを上っている、という感じである。途中で参加者たちの息が弾むのが聞こえてきたほど、その階段は長かった。

本堂はとても立派であったが薄暗く、寒い。30人近くの参加者は、こそとも声を発しない。ぴんとしたものが張り詰めており、言われずとも勝手に背筋が伸びた。

雲水さんから朝課の説明があり、一人一人に経本が渡される。そして、我々はじっと待った。

やがて、雲水さんたちが法堂へと入って来る。

ほとんどが墨染の衣を着ているが、まれに色付きの布を巻いている雲水さんがいる。この人たちの方が位が高いようだ。それにしても……と私は思った。本当に若い雲水さんばかりだ。ほとんどが20代なのではないだろうか。

私は、この中で自ら出家を志願してきた人(生まれがお寺ではない人)はどれくらいなのだろうと思う。もしかしたら、ほとんどいないかもしれない。そう思うと、少しさみしいような変な気持ちになった。

雲水さんが揃うと、何の前置きもなく、読経が始まった。

全部で100人ほどの読経は荘厳で、その低い声が腹の底に響くようだ。経本を渡されているが、指示はない。ただ、我々をそれを聞く。一つのお経が終わると、次のお経へ。そしてまた次のお経へ。

雲水さんたちは読経が終わると、あるいは次の読経が始まる前に、深く頭を伏せる。その際、かならず畳に布を敷いた。頭を畳にこするほど深く伏せるからである。私はお経のことは全く勉強していないので(すみません)、内容は全然わからない。

いくつかのお経が終わると、雲水さんがページ数を書いた紙を掲げる。我々は指示された経本を開くが、唱和はしなかった。やがて、焼香が始まる。私たちは順番に2回の焼香をした。

お経は様々な種類のものが、ほとんど途切れなく何十分も続いた。そしてそれは、静かに終わった。

妙なことに、私は朝課を見学して、非常に気まずい思いをした。これは本来、私たちが見るべきものではないなぁという気持ちがしたからであった。雲水さんたちは修行のためにこれをしているのであって、私たちのためにしているのではない、という思いを強くしたのである。

なのでせめて、この時抱いた「本当は私が見るべきものではなかった」という思いを忘れないようにしよう、ということにした。それくらいしか、私にできることはなかった。

 

 ***

 

その後、雲水さんが簡単に永平寺内を案内してくれた。庫院(ご飯を作るところ)、山門(入り口。ただし、この入り口は入り口でありながら、入門の時と、永平寺を出る時の二度しか通ることを許されない)、僧堂と案内される。

非常に寒く、私はコートの上にマフラーを巻いていた。特に僧堂は床が石畳で、足元から冷気が昇って来るようだった。

「この僧堂は、冬は大変冷えます」と雲水さんが説明する。

「昔はこの僧堂で、雲水たちは石畳の上に直に座って何時間も修行をしていました」

参加者たちがざわざわする。すさまじいなぁ、と私も思う。

「しかし、それで膝や腰を痛めるものが続出したので、今はこの畳を張った椅子に正座をして修行しております。しかしこれでも、かなり冷えますので、冬場の修行はとても厳しいです」

雲水さんが示しているのは、背もたれのない長椅子に、畳を張ったものだった。そして次に、彼は天井近くの木彫りの欄間を指す。

「あそこには仏教の教えが物語として描かれており、全部で十二枚あります。右手の一番奥の絵をご覧ください」

声に導かれ、我々は天井近くの絵を見上げた。

「あそこに描かれているのは、禅宗の開祖と言われる達磨様と、達磨様に参禅を乞うている慧可様の絵です。達磨様は慧可様の参禅を許さなかったので、慧可様は自らの腕を切り落として、その決意のほどを示されました。それほどに禅の修行は厳しく、その覚悟を常に意識しながら、我々はここで修行しています」

私たちは寒さに震えながら、その解説を聞く。今はまだ、永平寺に雪は降っていない。真冬の、しかも午前4時の寒さはいったいどれほどのものだろう。永平寺の雪深さは、山の木々の枝が雪の重さで下向きに伸びるほどだという。私は、頭上の達磨と慧可の絵を見つめることしかできなかった。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20211205210457j:image

永平寺から宿に戻ると、お姉さんが温かい朝食を用意してくれていた。どうでした? と聞かれたので、すごかったです、と言う。

この時で、まだ朝の8時前である。少しだけゆっくりしたあと、私は宿をチェックアウトした。お姉さんに深くお礼を言う。この宿に泊まって本当によかった。

 

永平寺町の朝はすがすがしい。私は福井行きの電車に乗って、最後の目的地である福井県ふるさと文学館へ向かった。

福井駅から少し離れている場所にあったが、ここはぜひ行ってみたいところだった。というのも、この文学館のホームページの情報量がすごかったからだ。福井出身の作家のみならず、福井が舞台の小説はほぼ網羅しているのではないかという情報量には圧倒された。期待してしまうのも無理はない。 

バスに乗ってたどり着いた図書館が、田んぼのど真ん中にあって驚く。しかし入ってみると、とても立派な造りである。空間的にも非常にひろびろとしていて、午前中だと言うのに利用者も多い。これは名のある建築家が手掛けているのでは……と思いあとで検索してみると、槇文彦という建築家の設計であった。なんと、幕張メッセを設計した人である。地方の図書館を有名建築家が手掛けていることは、けっこう多いのだ。

 

そして、福井県ふるさと文学館の展示はやはり素晴らしかった。常設展示で多くの作家が取り上げられている上、デザインも美しくとても見やすい。福井にゆかりの深い作家は顔写真つきで紹介されており、初版本(複製かもしれないが)が並べて展示してあるのも嬉しかった。

しかし、何より驚いたのは企画展であった。この時開催されていたのは「深田久弥没後50年記念展「山があるから」」という展示である。深田久弥という作家(登山家)のことは知らなかったが、せっかくなので入ってみた。

入り口で用紙に記入すると、展示品にまつわるクイズをしていますので、よかったら答えてみてくださいと言われる。ふーんと思いながら、私は気軽な気持ちで最初の展示に向かった。そして、そこで度肝を抜かれる。芥川龍之介の「河童図」が展示してあったからだ。

え? 本物? と思った。原稿などの劣化を防ぐため、最近は展示物も精巧な複製品が多い。なぜここに「河童図」があるのかわからなかったので、これも複製だろうと思ったのである。

しかし、説明に日本近代文学館所蔵と書いてある。間違いなく本物だった。

よく説明を読んでみると、芥川の作品「河童」は穂高岳周辺の土地が舞台で、芥川自身も槍ヶ岳登山をしていたらしい。本気だ…! と思った。この文学館の展示は、ちゃんと見なくてはならない。

その後も、井上靖氷壁』や新田次郎孤高の人』、夢枕獏神々の山嶺』など、これぞという山岳小説の代表作が展示してある。しかも、それらの展示品がきちんと実物なのが感動ものだ。私は『氷壁』を読んでおり、実在の事件がこの作品のモデルであることを知っていた。なので、事件当事者の山岳メモまで展示してあるのを見て、驚くことしきりだった。

展示を見終わって、文学館の受付の人にクイズの紙を渡す。受付の人はとても喜んでくれ、私は参加の記念品のオリジナル缶バッチを貰った。そのデザインがとてもかわいいので、私はそのことを褒める。しかし、本当はもっとこの文学館のことを褒めたい。

すると、なんと受付の人の方から「展示はいかがでしたか?」と言ってくれるではないか!

私は興奮気味に、展示品に実物が多くて驚いたこと、文学館自体もとてもいい作りであること、ホームページの充実ぶりも素晴らしいことなどを話した。受付の人がとても嬉しそうだったので、私も嬉しかった。

時間があまりないので短い滞在であったが、また来たいと思う文学館だった。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20211205203256j:image
帰りの道路で事故が起こり、無事福井駅に帰れるかヒヤヒヤしたものの、私は無事に特急サンダーバードに乗り込むことができた。

終わってみると、なんと短い旅行だったことだろう。しかし、なんと充実した旅だったことだろう。

本当に楽しかった。また、福井に遊びに来たいと思う。

 

 

恐竜と禅寺とだるまちゃんの旅 ―福井旅行2泊3日その③

f:id:hikidashi4:20211204195521j:image

福井旅行2日目も、盛りだくさんな1日だった。行ったところは、一筆啓上 日本一短い手紙の館→中野重治記念文庫→越前竹人形の里→恐竜博物館である。

 

最初に私が向かったのは、坂井市丸岡町だ。

この土地には、日本最古とも言われる天守閣を有する丸岡城がある。しかし、私が丸岡町へ行くのはこのお城を見るためではない。旧坂井郡高椋(たかぼこ)村(現在の坂井市丸岡町)一本田(いっぽんでん)に生まれた文学者、中野重治の蔵書約1万3千冊が保存された施設「中野重治記念文庫」へ行くためだ。

 

中野重治記念文庫がある丸岡図書館は、9時半からの開館であった。私は9時ごろに図書館前に着いたので、開館までの間、お隣の「一筆啓上 日本一短い手紙の館」へ行くことにする。

この建物は、毎年行われている「日本一短い手紙 一筆啓上賞」コンクールの優秀作などが展示されている施設である。このコンクールは、後の丸岡藩主となる本多成重の父親が、妻(成重の母)へ宛てた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という手紙が元となって開催されているものだ。この手紙が用件を簡潔明瞭に伝えた手紙の手本と言われていることから、1~40文字までの手紙形式の文章を募集し、毎年優秀作を表彰しているらしい。

正直に言うと、私はこのコンクールに全く興味がなかった。ハートウォーミングなエピソードにも、人と人の絆などという言葉にも、作り物めいた安っぽさしか感じられなかったのである。

しかし、実際に優秀作を見てみると大変面白かった。簡潔な文章の背後に大きなストーリーが感じられ、人間の複雑さが表現されていて見ごたえがある。

どうしてかなと思い説明を読んでいくと、この賞の応募総数はたいだい毎回3万通以上、多い年には5万通以上にも達するとあって驚いた。大変に母数の大きな賞なのだ。

この賞は、現在も公益財団法人丸岡文化財団が続けている。地方都市の文学賞にこれだけの応募があることは、素直に私を驚かせた。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20211204191025j:image

さて、中野重治記念文庫である。

開館すぐの丸岡図書館は、なんの変哲もない町の図書館といった雰囲気で、初めての場所であるにも関わらず妙に安心した。本棚も眺めながらぶらぶら歩いていると、「中野重治記念文庫」のプレートがあるのを見つける。

プレートの先には細い廊下が続いており、突き当たりには部屋があって扉が開けてあった。しかし、部屋の電気はついていない。ここでいいのだろうか? そう思いながら廊下に一歩踏み出すと、廊下沿いの棚に中野重治の著作や関連本が並べてあることに気がつく。

やはりここなのだ。私はそっとその本棚を眺めながら、でも勝手に入っていいのかな、としばらく様子をうかがっていた。ふと窓から外に目をやると、大きな石碑が立っている。そこに文字が刻まれているのを見て、あっ、中野重治の文学碑だ、と思った。中庭のような造りの隅に立っているそれは、柔らかな陽の光を浴びて静かに佇んでいる。私の足は、自然と電気のついていない突き当たりの部屋へと向かっていった。

 

実際に見るまでは、1万3千冊という数字がどの程度のものなのか想像がつかなかった。しかし、いざ目にすると「本当にこれ全部、中野重治の蔵書?」と驚いた。多いのである。小・中学校の図書館を思い出した。それくらいの量があるのだ。個人の蔵書として、1万3千冊はかなり多いことがわかった。

おそるおそる電気をつけ、あたりを見回す。入り口に芳名帳があり、その横にはスタンプ台やパンフレット、そして中野重治が自身の子供時代をモデルとして書いた小説『梨の花』の舞台マップが置いてある。私はそそくさと記念スタンプを押し、パンフレットとマップをもらった。部屋の中央の棚に、中野の私物が展示してあるのを見ようと歩いて行ったが、その手前に絵が飾ってあるのが目に留まる。絵にはこのような文面が添えてあった。

「これはすり鉢とおろし金なり。すり鉢は大きく、おろし金は小なり。ただ位置の関係にてこのように見ゆ」

確かこのような感じの文だったと思う。この文面通り、絵は奥にすり鉢が、手前にはおろし金が描かれている。それらは同じくらいの大きさに見えた。しかし、「本当は」すり鉢は大きく、おろし金は小さいのだ。同じ紙面の中に、中野重治がそう書いているのだから。

私はこれを見た時、なぜかほのぼのと嬉しくなって、ああ、本当に中野重治の記念館に来たんだなぁと思った。

 

中野重治は1902(明治35)年生まれの小説家・詩人である。プロレタリア文学を代表する小説家の一人であり(後に転向する)、日本共産党参議院議員も務めた人物だ。

私はこの作家を『文豪とアルケミスト』という、文学者を題材としたゲームから知った。そこでのキャラクターの「彼」は、物腰柔らかで知的な雰囲気の、しかし自己の行為への後悔と葛藤を抱えた人物として造形されている。

私としては、その造形は好ましくもなにか特別な感情を抱かせるには足りないものだった。しかし、実際の中野重治の著作に触れてみると、その作品が持つ味わいにはとても惹かれるものがあった。

それは、ある種の割り切れなさである。何かを正確に記そうとすると、その行為自体に矛盾が生じる。例えばそれは、正確にスケッチをしようとすると、そのものの大きさがいつの間にか狂ってしまうようなものかもしれない。これは技術的な問題だろうか? そうかもしれない。しかしそこにこだわる姿勢、あるいはその問題の根本的な矛盾を考え続ける……私には、それは問題につまづき続ける姿勢にも見える……姿勢には、何か誠実なものが感じられた。

大きなものの歪みを許さない性格、単純でない世界だからこそ単純で朴訥としたものへの確かな信頼、権力やシステムそのものへの疑い、中野の作品に現れるそういったものが、私には親しみやすかったのだ。

 

しかし、率直に言って中野重治の著作は読みやすい方ではない。私もいくつか作品を読み齧ったにすぎない。中野の膨大な蔵書は、見ている分には面白く発見も多かったが、私にはその意味を読み取るほどの知識がなかった。

その道の研究者からすれば、これだけの蔵書がほぼ完全な状態で保存されているのは、まさに宝以上に価値のあることだろうと想像する(しかし、これはただの想像であって実際はどうなのか知らない)。

それよりも、私がこれらを見て率直に感じるのは、中野重治という文学者がこの土地でとても愛されているのだなぁということだ。これだけの著作が行政によってきちんと管理されていることは、それだけで驚くべきことだし、俗っぽく言えばとても幸運なことだ。

著名な文学者の邸宅や蔵書も、費用の捻出が難しく、泣く泣く解体したり手放したりするほかない、という話は多く聞く。しかし、この記念館はよっぽどのアクシデントでもない限り、おそらく何十年後もきちんと管理されているだろうと思われた。それは並大抵のことではない。

 

実に様々のジャンルの本が並んでいる。その背表紙をひとつひとつ眺める。

それら1冊1冊は商品として大量生産されたうちの一つであるが(中には希少本もあるかもしれないが)、中野重治という一人の知識人の所有物であったということが、大きな意味を持つ。それは個人の知識の外部的な記録であると同時に、一つの時代を証言するだけの何かである。

ところで私は、蔵書の中で全集の占める割合が多いことが気になった。いったい何人分の全集を持っているのだ、と思ったくらい、中野重治はたくさんの全集を持っているのだ。いわゆる文学や歴史の研究者ならそれもわかるが、中野は教鞭をとっていたというわけでもなさそうなので、謎である。

個人の趣味なのかな、とも思った。中野は、作品を読むというより、作者を読むというタイプの人だったのかもしれない。

 

帰りに図書館の受付で、『無骨なやさしさ』を買う。これは、丸岡図書館が発行しているオリジナルの中野重治作品集である。ホームページで収録作を見て、これはとピンとくるものがあったので、買うのを楽しみにしていたのだ。

受付の方とお話すると、武生や今庄の言葉とずいぶん雰囲気が違うので驚いた。ごつごつしていて力強く、素朴な感じだ。まさに、中野重治が『素撲(そぼく)ということ』の中で「だいだい僕は世のなかで素撲というものが一番いいものだと思っている」と書いていたことが思い出されて、非常に嬉しかった。

本を買うと、受付の人から「ビデオは見ましたか?」と訊ねられる。私がいいえと答えると、お時間があるならぜひと勧められた。そこで、また記念文庫に戻って係の人にビデオを再生してもらうことになった。せっかく来たんだから、もうちょっとゆっくりしていきなさいと言われているようで、おかしく思いながら中野重治についてのビデオを見た。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20211204191530j:image

丸岡の町は、私が小学生の頃過ごした町を思い出させるものがあった。私が住んでいた町は校区内に団地があって、団地と幼稚園の間に大きな広場があり、鉄道の最寄り駅はないがバスの要所であった。都会ではないが地域で事足りるだけの充足感があり、子供が多く、過ごしやすかったように思う。

時々、地方に行くと廃墟のようだと感じる町に遭遇することがある。それらは人口が少ない町というよりも、急速に人口が減った町である。人そのものがいないことよりも、シャッター街や空き家などといった「かつては人が住んでいた」場所を廃墟と感じるのだ。

丸岡は家も店も多くはないが、街全体に人の営みを感じた。図書館を出た私は、バスセンターへと向かう。ちょうどそういうイベントがあっているのか、定期的なものなのかはわからないが、バスセンター前の広場には出店がたくさん出ていて賑やかである。親子連れが多く、中には子供とおじいさんおばあさんが一緒という組み合わせも多かった。

 

私はバスで「越前竹人形の里」へと向かう。福井県出身の作家である水上勉の『越前竹人形』を読んでいたので、せっかくだからと足を延ばすことにしたのだ。そして、ここに併設されているカフェで昼食にしようという予定だった。

しかし、旅行にはトラブルがつきものだ。なんと、そのカフェは廃止されていたのである。

じゃあ別のところで昼食を、とできないのが地方旅行の悲しさだ。周りにはお店らしきお店もなく、次のバスは1時間後……私はすっかり困ってしまった。

竹人形は精緻な工芸品で、作品は味わい深かったが、どういった人が買うのだろうと不思議でならなかった。縁起物なので、私の知らない筋の人が一定数購入するのかもしれない。しかし、水上勉の傑作『越前竹人形』を読んでいても、1時間も竹人形を鑑賞することは難しかった。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20211204195558j:image

恐竜博物館は、今回の旅の目玉である。知っている人は知っていると思うが、福井駅には恐竜のモニュメントや壁画がたくさんある。福井県内で多く恐竜の化石が発見されていることから、福井は県で恐竜を推しているのだ。

 

恐竜博物館の最寄り駅であり、えちぜん鉄道の終着駅である勝山駅までの車窓は、紅葉が美しかった。えちぜん鉄道の停車駅の半分ほどは無人駅で、2両編成の小さな列車の車内もあまり混んでいない。私はのんびりした気持ちで恐竜博物館へ向かった。

勝山駅から博物館へ向かう道のりでも、恐竜モチーフのものを多く見かける。これは期待できそうだと思う。しかし、いざ博物館についてみると、その人の多さに私は少々げんなりした。

今までの道のりからは考えられないくらいの人出であった。一人で来ているのは、私くらいのものだ。みんなは車で来ているのだとはわかっていても、人込みが苦手な人間としては、嘘でしょと言いたくなってしまった。

 

しかし、世界的な恐竜博物館と言われるだけあって、展示はとても面白かった。

長いエスカレーターを降り、洞窟のような通路を通って階段を上ると……動く恐竜がいる!!

そのインパクトはかなりのもので、みなここで圧倒されるのは間違いない。この恐竜が本当によくできているので、リアルジュラシックパークだ!!とテンションが上がった。

そのあとの展示も、とにかく迫力がすごい。大きいのである。恐竜の骨格標本が実物大で展示してあるのだが、どれも本当に大きく、踏みつぶされそうなのだ。体感で恐竜のサイズ感が味わえ、かなり楽しい。

そのほかにも、実物の恐竜の骨(軽く小学校中学年の身長くらいある)に触れたり、化石のクリーニング作業を間近に見ることができたり、地球考古学の展示(地層や鉱石の展示も豊富)があったりと、とにかく体感型の展示が次から次へと組まれており、飽きることがない。展示の仕方や建物の順路がとても工夫されており、よくできているなぁと感心した。

 

とはいえ、これら恐竜の楽しさの「仕組み」を考えている時点で、どこか私は自分が冷めていることも感じていた。

中野重治記念図書館と恐竜博物館の楽しさは、比べられるものではない。けれども、私が恐竜博物館にどこか物足りなさを覚えていることは事実のようだった。

それはおそらく、その楽しみが能動的であるか受動的であるかの違いなのだろう。そんなことを考えながら、私は混み合う帰りのバスに乗り込み、やれやれと思ったのだった。

 

 

 

明日はいよいよ、楽しみにしていた永平寺観光である。

楽しみであるが、同時に緊張もする。どんなものなのか、そもそもちゃんと参加できるのかわからないということは、私にとって何よりワクワクすることだった。

恐竜と禅寺とだるまちゃんの旅 ―福井旅行2泊3日その②

f:id:hikidashi4:20211127214731j:image

悩んだ末に降り立った今庄駅の降車客は、私の他には一人だけだった。

向かいのホームへ渡るため、階段を上っていくと「おかえりなさい」というメッセージが私を迎える。「ようこそ」ではないのだな、と思った。この駅で降りる人たちは、ここに住んでいる人がほとんどなのだろう。

 

改札はピカピカで真新しかった。窓口に人がいるほか、待合の椅子にも2人が電車待ちをしている。荷物は預かってもらえるだろうかと思い駅員さんに尋ねてみると、コインロッカーがありますよと案内してくれた。おや、と思う。コインロッカーがあるのだ。

荷物を整理して軽装になり、改めて駅を見回してみた。こぢんまりとしているが、とても綺麗だ。なんとお土産ブースもある。そして気になったのは、待合室の隣に「今庄まちなみ情報館」という別室があることだった。

「宿場と鉄道で栄えた今庄の歴史や見どころを紹介しています」

自動扉にはそう書いてあった。入ってみる。

今庄は北陸と京都を結ぶ宿場町として栄えていた町であること、また鉄道が通ってからも交通の要所であったことなどが紹介されていた。とても凝った美しいパネル展示や、鉄道の精巧なジオラマなどが私を驚かせる。駅でここまで力の入った歴史紹介をしているところも珍しい。

お土産ブースもぜひ見たかったが、電車の乗り合わせの関係であまりゆっくりできない。最初は一時間を持て余すのではないかと思っていたことが嘘のようだ。

私は急いで駅舎を出ると、舞城王太郎のデビュー作『煙か土か食い物』の本を建物と一緒の画面に写るよう撮影した。たまたま人が近くを通っているのに出くわし、こそこそする。目的を達成できたことよりも、なんだか自分が場違いなことをしているようで恥ずかしかった。

 

f:id:hikidashi4:20211127214834j:image

駅舎を出て、とりあえずかつての街道へ出ようと山に向かって歩き出す。北陸は九州よりも寒いに違いないと厚着をしてきたが、武生ではそれが暑いくらいだった。ところが、ここ今庄では驚くほど空気がひんやりしている。風が全くないのに底冷えがした。寒さというよりは、冷たさといった方がいいような感覚である。山の空気がひしひしと感じられた。

平日の4時ごろだというのに、あたりはひっそりとしている。歩いていると、どこかへ吸い込まれそうな気がした。それがとても心地いい。ただ街を歩いているだけでどきどきする。立派な家がたくさんある。どの家も庭が美しい。静かである。

かつての街道に出た。いかにも歴史のありそうな門構えの建物の前に、「高札場跡」と看板があるので読む。その隣には「問屋場跡」とある。これも読む。楽しい。木材も当時のままなのだろう。それらは黒ずんでおり、雪国の長い冬を感じさせた。

そのまま街道筋を歩く。お店もぽつぽつあるが、開いているのか閉まっているのか、よくわからない。開いているとわかるところでも、とてもひっそりとしている。

途中、酒蔵を見つけた。しかし、ここも閉まっているように見える。看板だけ写真に撮り、そのまま歩く。歴史の看板があればまた読む。そうやって歩いて行くと、なんとなく街道の突き当りかなというあたりまでやってきた。そこで一件のお店を私は見つける。「名産 梅肉」と立派な看板が掲げてあった。店の中を覗いでみるが、誰もいない。しかし、明かりはついている。私は中に入った。

広い三和土(たたき)で立ち止まり、中を見回す。昔の家の玄関といった造りである。どっしりとした上がり框、黒光りする木材の床、右手の壁沿いには大きな箪笥が並んでいる。箪笥の一部がガラスケースになっており、その中に梅を使った商品が陳列してあった。左手には賞状のようなものが並んでいる。歴史があるお店であることは、一目でわかった。

お店の奥から人が出てきた。柳のように品の良いご婦人である。挨拶をする。

「あの、全然知らないんですけど好奇心で入って」と私。

するとそのご婦人は、このお店が元は旅籠として江戸時代から続いていることを教えてくれた。ガラスケースの前に両膝をつき、その前に出してある箱から容器を手に取ってくるくると蓋を開ける。

「これはねぇ、梅肉でしてね、これをずーっと作ってるんですけどね」

関西の優しいイントネーションで話しながら、プラスチックの匙でそれを掬って試食させてくれる。酸味はあまり感じられない、とてもまろやかで美味しい梅肉である。

さらに、近くの瓶を手に取ると、これまたくるくると蓋を開け、ほんのり色づいた液体を小さな紙コップに入れてふるまってくれた。

「あっ! すごい、美味しい」

とても美味しい梅ジュースである。朝、始発の電車に乗ってから移動しっぱなしの私にとって、その液体は体のすみずみまで行きわたった。値段を訊くと、意外にもとても廉価である。買うことにした。ご婦人は少女のように喜んでくれる。

「どちらから?」

「福岡です」

「まぁ!」

その驚きぶりがまた可愛らしい。聞けば、つい昨日、福岡の筑豊の人に梅ジュースを発送したのだという。

「福岡はねぇ、行ってみたいんだけどねぇ」

「遠いですもんね」

「でも、福岡と言葉が似てますよと言われたのよ」

そうかな?と私は思った。博多弁も柔らかな方言だと思われているのだろうか? 確かに音は柔らかいかもしれない。しかし、福岡の人間は騒がしいと私は思う。このような静かな雪国からすれば、なおさらだ。

梅ジュースは瓶入りだったため、私がビニール袋に包んでもらえませんかと言うと、ご婦人は家の奥に戻ってビニール袋に入れて持ってきてくれた。よっぽど訪問客が嬉しかったのだろうか、何度も「ありがとう」と言われる。こそばゆい感じである。

お店を出て瓶を覗いていると、ビニール袋にきゅうりの切れ端がくっついていた。おやおや、と思う。行ってよかった。

 

f:id:hikidashi4:20211127220505j:image

その後も、特に何もなく静かに今庄の街を散策した。堀口酒店の前で、「鳴り瓢」の看板に思わず声を上げたくらいだ。

なぜこの看板に注目するのかというと、舞城王太郎が脚本を手掛けたアニメ「ID:INVADED(イド:インヴェイデッド)」の主人公の名前が「鳴瓢秋人」だからである。このアニメのキャラクターの名前が、みな福井の酒の名前から取られているとは聞いていたが、いざその看板を目にするとかなり驚いた。

私は故郷を離れて暮らしたことがない。そのせいかもしれないが、全国区のアニメのキャラクターに故郷由来の名前をつけることが、とても奇異に思える。なぜそこまで自分が生まれた土地にこだわるのか? それはどういう愛情なのか(おそらくそれは愛情だろう)? それは自己愛と同じ性質のものだろうか? わからない。

しかし、今庄は確かに美しい土地だった。私はそう感じた。駅舎に戻ってきて、お土産ブースへ行く。とても各駅停車の電車しか止まらない土地とは思えない、豊富なお土産が並んでいる。しかも、デザインがどれもよい。私は迷った末に、蒸気機関車をあしらったデザインの定規を買った。とてもかわいい。

どうしてこんなにグッズがあるのだろう? どうしてこんなに私は満足しているのだろう? 旅はいつも予想外のことが起こるから、不思議である。

帰りの電車は、来た時よりも多かった。みんな福井へ行くのだ。私はすでにくたくたのはずだったが、梅肉と梅ジュースをふるまってもらったおかげか、来た時よりも元気になっている気がした。酸っぱいものが疲労に効くというのは本当だな、と思った。

 

 ***

 

福井駅えちぜん鉄道に乗り換え、泊まる宿のある永平寺に着くと、もうあたりは真っ暗である。この時、スマホの充電がなくなりかけており、Googleマップを使うと充電が切れそうなくらいだった。私は駅員さんに切符を手渡すと、旅館までの道順を尋ねる。当然のように駅員さんはその旅館までの道を知っており、私に教えてくれた。

街灯の少ない真っ暗な道をてくてくと歩く。二泊分の荷物が重い。日が落ちて気温も急速に下がっている。本当にこの道でいいのだろうか? 私はこのまま路頭に迷うのではなかろうか?

死にそうなくらいの寂しさと不安に襲われる。これを味わうと、もう旅行がやめられない。この瞬間のために生きているなぁと感じる。

宿にたどり着くと、美人で話好きのお姉さんが対応してくれた。この土地で生まれ育ち、そのままずっと働いているのだという。私は自分から話すのは苦手だが、話しかけられるのは好きだ。しかしお姉さんがあまりに陽キャな感じなので、少しびびる。しかし、このお姉さんからは、聞いてよかったと思うようなお話を後にたくさん聞くことができるのである。

でも、さすがにこの日は疲れてすぐ寝た。

 

恐竜と禅寺とだるまちゃんの旅 ―福井旅行2泊3日その①

f:id:hikidashi4:20211123202137j:image

私は移動の多い旅行をするので、旅行中の最大の願いはとにかく雨が降らないことである。その次が暑すぎないこと、寒すぎないこと。これさえ叶えば、あとはどうにかなるとさえ言ってもいい。

 

北陸は天気が崩れやすい地域であるが、今回の福井旅行では3日間雨に遭わずにすんだ。本当によかった。

おかげで、たくさんの地域を回ることができた。武生(たけふ)に始まり、今庄、福井、永平寺、丸岡、勝山と順調に巡れてこんなに嬉しいことはない。どの地域もそれぞれ見どころがあり、素晴らしい旅行だった。

福井、ありがとう。ここでは、その素晴らしい思い出を、せめて記録しておこうと思う。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20211123202153j:image

福井県で最初に降り立ったのは、武生である。

駅を出るとすぐ、「「かこさとし」「いわさきちひろ」のふるさと 越前市」という看板が出迎えてくれる。そう、ここは日本で生まれ育った人なら一度は読みきかせしてもらったであろう、絵本作家の2人を生んだ町なのだ。

その看板の向こうには、雪吊をした木々が見えた。北陸に来たのだなぁという感慨が湧く。私は、わくわくしながら観光案内所へ行った。この町の地図をもらうためである。

 

案内所では、おばあさんが受付の人に話を聞いていた。どうやらこの町は初めてらしい。お昼にどこで何を食べようかを尋ねている。このお年で、しかも一人で知らない町へ来るのは、いったいどんな用事なのだろう。この方も観光なのだろうか。もし、そうだとしたら素敵である。

そんなことを考えながら待っていると、おばあさんが受付の人にお礼を言いながら去っていった。町の地図をもらい、かこさとしふるさと絵本館に行きたいのだと言うと、その女性がバスを教えてくれる。

「ここにかこさんのお土産もありますよ」

女性が指した先には、かこさとしの絵本のキャラクターが使われたグッズが並べてあった。この案内所に入ってすぐ、よく見える場所に置かれている。

「ほんとですね、すごくかわいいですね」

「これは記念館には置いていないんです、ここにしかないんです」

「えっ! そうなんですか」

「あんまり作ってなくてね」

私は慌てた。今ここで買っておいた方がいいだろうかと思ったのだ。するとそれがわかったらしい女性は、「帰りに寄った方がいいと思いますよ」と言ってくれた。確かに、どうせ駅には戻らないといけないので、帰りに買った方が荷物が少なくてよい。

「そうですね、ありがとうございます」

私はかこさとしふるさと絵本館へ向かうことにした。

 

f:id:hikidashi4:20211123202220j:image

かこさとしふるさと絵本館の庭で、さっそくだるまちゃんを見つけた。遊具にデザインしてあるほか、滑り台にもあしらってある。その素朴な愛らしさに、思わず胸がきゅんとなった。ヤツデの木の下には、本の形の石板があり、ヤツデの葉っぱを持っただるまちゃんの絵本のページが開かれている仕様だった。なにもかもが愛らしい。

私は自分の幼少期を特に平和だったとは思わないが、かこさとし作品のキャラクターを見ると、不思議なことに、自分の子供だった頃がとても平和で穏やかなものだったような気がした。うまく言えないのだが、そういう架空の記憶が想起されるのだ。それは私個人の記憶ではないのだが、かこさとし作品のキャラクターを通じて、とても素直に受け入れられ、そのことに私は感動した。

 

記念館に入る。だまるちゃんとてんぐちゃん、かみなりちゃんのお人形、そしてかこさんの写真が出迎えてくれる。不思議なくらい懐かしい気持ちでいっぱいになる。

記念館の一階は、絵本や紙芝居の図書館だった。受付らしい人は書き物をしていて、私が入ってきても何も言わないので、そのままぶらぶらする。入館料が無料なので、こういうものかなと思いながら見ていた。しかし、別の男性が私に気が付き、紙を挟んだバインダーを持ってきた。

「すみません、この用紙に記入してもらえませんか」

その男性が非常に腰が低いので、私も恐縮しながら用紙に記入した。私が福岡から来たとわかると、彼は驚いてとても嬉しそうににこにこする。この記念館の説明を受けた。一階は写真を撮ってもいいけれど、二階の原画は撮影禁止。また、一階も絵本の表紙が大きく映るのは禁止、と説明を受ける。

私はお礼を言ってから一階の写真を撮り、『からすのパンやさん』の絵本を読んだ。からすのパン屋さんの子供たちがわがままで気ままなこと、登場人物たちがあわてんぼうや早とちりであること、そしてかこさんのあとがきから、この作品がロシアのオペラからヒントを得たということなどを知って驚く。

かこさんは東京大学工学部を卒業し、工学博士でもあった。子供の頃には全く知りもしなかったそれらの情報に、今は感心しながら納得する。セツルメント運動(民間人が貧困地域に赴いて、医療や宿泊場所を提供し貧困に苦しむ人を支える運動)の一環として、子供たちへ作品の読み聞かせをして鍛えられた、という背景も知った。偉大な人だ……私たちも、そんなかこさんからの恩恵を受けて育ったのだ。

二階へ上がる階段の壁には、かこさんの写真や自画像が張ってあった。説明文に、「おかあさんのおなかにいるときから かこさんはめがねをかけています」と書いてある。たしかに、絵の中で女性のおなかの中にいる赤ちゃんは、めがねをかけている。ふふっと思う。

 

二階ではかこさんの原画を見て、『だるまちゃんとてんぐちゃん』を読んだ。だるまちゃんは欲しがり屋さんでお父さんにおねだりして、お父さんが見当違いのものを持ってくると「ちがうよう」と駄々をこねる。しかし、自分で工夫してそれっぽいものを作りちゃんと満足する。そして、ここでもかこさんのあとがきに驚いた。かこさんが達磨や天狗の起源について触れているのである。なんと深い教養だろう!

グッズがないと言われていたが、この記念館でもグッズはあった。ただ、駅の観光案内のと全くかぶっていないし、品数も少ない。私はだるまちゃんのキーホルダーを買って、記念館をあとにした。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20211123202239j:image

次に向かったのは、ブックカフェゴドーである。グーグルマップの写真から、なんとなくいい感じなブックカフェではないかと期待していた。何より、店の名前が『ゴドー』なので、玄人感がする。『ゴドーを待ちながら』から取っているのは、ほぼ間違いないだろう。

そしていざ行ってみると、期待以上であった。店内の雰囲気もさることながら、本棚の本が素晴らしい。本好きの本棚なのだ。高橋源一郎、阿部公房、中原中也ランボー松岡正剛吉本隆明、民芸の選集、美術全集、映画、歴史、漫画……。最近の本や漫画もぽつぽつ混じっているあたりが、また好感度が高い。

入った時にすでに7割ほどお客さんがいたのだが、私の後にも続けてお客さんがあり、あっという間にお店はいっぱいになってしまった。店主さんは帽子をかぶった穏やかな初老男性で、入って来る人と短い会話を交わしている。

私はカウンター席に座っていたのだが、本棚を見ている間に隣の席に白人男性が座っていた。お昼からビールを飲んでいる。店主さんは、自分からその人の話を穏やかに聞いてあげていた。それが押しつけがましくない優しさであることは、一目で見て取れた。その男性はそわそわしていたし、店主と話すと嬉しそうだったのだ。

あ、ここはただの喫茶店ではなくて、サロンなのだな、と思った。そして、こういう場所があるこの土地は、文化的にとても豊かだな、と思った。

隣にも部屋があり、そちらも本がいっぱいだったので、店主さんに見てもいいですか、と訊ねる。店主さんはこころよく案内してくれた。また、私は店内の写真が撮りたかったのだが、お客さんでいっぱいだったので、この別室の写真を撮っていいですかと訊ねる。こちらもこころよくOKしてもらえた。

お勘定の際、本が好きなの?と聞かれた。好きです、と答えると、ここの本を借りて行っていいよと言われる。私は自分は福岡から来たのだということを言わずに、へぇ、いいですねと言った。店主さんは近くの棚からメモ帳を引っ張り出すと、こういう風に名前を書いたら好きなものを借りていいよ、と言う。武生に住みたくなった。私は、ただお礼だけ言ってお店を出た。

 

 ***

 

f:id:hikidashi4:20211123202326j:image

このあとは、いわさきちひろが生まれた家を記念館にした「ちひろが生まれた家記念館」に行った。いわさきちひろの絵も幼少期から見慣れていたので、とても懐かしく思ったが、なぜかだるまちゃんを見たときほど美しいものは込み上げてこなかった。私の好みの問題かもしれない。

ただ、芸術的にいわさきちひろの絵はとても美しく、原画を見れてよかったと思った。また、こちらの記念館は受付の女性の武生弁(?)がとても優しく柔らかい響きで、お話できて非常によかった。これはあとでわかることだが、福井地方と武生地方の言葉はびっくりするほど違う。武生で話した人々の言葉のイントネーションは、明らかに関西風である。優しく品がある。

 

さて、いわさきちひろの記念館を出て、再び観光案内でかこさとしのグッズを買うと、私は迷った。これから行く場所の滞在時間についてである。

私は今庄(いまじょう)に行きたかった。そこは、私の好きな現代作家・舞城王太郎の出身地と言われている地域だ。それだけで、私はとても行ってみたい。しかし、そこはいわゆる観光地ではないことがわかっていた。電車も各駅しか止まらない。

悩んでいるのは、地方の電車の本数が少ないからである。行くことはできる、しかし帰りの電車が一時間後にしかない。特に観光地ではない地域で一時間は厳しいのではないか? なんなら、今の時間で武生からなら特急に乗ってすぐ福井まで行ける。しかし、今庄に行くと、その特急すら逃してしまう。本当に今庄に行くだけの価値はあるのか?

 

悩みに悩み、しかし私は今庄へ行くことに決めた。その一時間が、この旅で大きな感動をもたらすことになるとは知らずに……。

時間の感覚と得られる感情

f:id:hikidashi4:20200608154649j:plain

カステラと猫ラーメンがおいしそう。


最近、フィクションを薦める時に「さらっと読めます!」「頭空っぽにして楽しめます」「1時間もあれば読み終わります」という言い方を多く目にするようになった気がする。逆に、「重厚な物語です」「読みごたえがあります」「壮大なロマンです」などといったお薦めのされ方は、ほとんど見ないように思う。

私はつい「最近」と言ってしまったが、実際はずっと感じてきたことかもしれない。しかし、ツイッターなどのSNSを見ている時間が多くなったために、「最近」のことのように感じるのだろう。

 

時間がタスク化・細分化されている現在、フィクションの需要も変わってきているのだろうということはよくわかる。

じっくりと腰を据えて読書を楽しむということは、現代ではほとんど「贅沢」と言ってよい。かかるコストで言えばそれらは「安い」はずなのだが、それだけの「時間」を捻出するためにかける労力を思うと、むしろ「高く」感じられるのだろう。

それくらいなら、感激にむせぶ「かもしれない」壮大な物語に取り組むよりも、ささやかではあるが「おそらくそこそこ満足するだろう」という物語に、時間を投資したほうがリスクが少ない。

かく言う私がそうだ。ここ数年、本当に本を読まなくなった。その割に、読んでも大満足はしないだろうという本の方を手軽に買ってしまう。そして、「これは絶対自分は好きだ」と思う本の方を、何年も何年も読まないままでいる。なぜならそれらの本は、質量ともに重いことが多いからだ。

自分が好きなものを、他ならぬ自分が遠ざけているなんて。なんと悲しいことだろう。

 

 ***

 

Amazonプライムで『四畳半神話大系』が見放題だったので、先週全11話を視聴した(この記事の冒頭に張っているのは、このアニメのワンシーンである)。とてもハイセンスな作画で、ストーリーもよくできており、何より世界観が素晴らしかった。

もともと私は、この物語の原作者である森見登美彦さんの作品が好きなので、その世界観が見事に表現されていることに、とても満足した。

このアニメは、京大に入ったものの2年間の学生生活を無為に終わらせてしまった主人公「私」が、あの時違う道を選んでいれば! と何度もその2年間を繰り返すというストーリーである。

そのため、全11話中、9話までおおまかなストーリーが同じだ。しかし、「私」の選択によって、少しずつ細部が異なる。それらの情報が蓄積され、終盤に向かってどんどん生きてくるのである。

 

このような設定なので、アニメでは同じようなシーンが何度も何度も出てくる。中には、ほとんど同じシーンが使いまわされているなとわかるところもある。しかし、不思議なことに、それを見ても手抜きだと感じることはないし、飽きることもない。

むしろ、それは視聴者に経験則を与える。物語から視聴者へ、ある種のパターンが示されること。さらに、元となるストーリーと異なる展開を、視聴者は新しい情報として上乗せできること。視聴者にとってこの上乗せは負担ではなく、「積み上げる」というある種の快感なのだ。

 

経験則と時間、ということを私は考えた。これは、現代の時間感覚とも、とても相性が良いだろう。

私たちはこの世界のルールを知りたい、その上で自分のレベルを上げたい、そしてそれらを駆使して目的を達成したい。この物語で主人公の「私」は失敗してばかりだが、視聴者はその経験が生かされることを半ば確信している。だから、飽きることなく物語を楽しめるのだと思う。

 

しかし、このアニメが放送されたのは2010年だし、この原作が書かれたのはなんと2005年である。「最近」ではない。

つまり、もともとこういう物語は多くの人が望んでいたし、今でもそれは変わっていないということなのだろう。

 

 ***

 

時間の感覚、と聞いて、私が思い出す作品がある。『夕べの雲』(庄野潤三)である。

夕べの雲 (講談社文芸文庫)

夕べの雲 (講談社文芸文庫)

  • 作者:庄野 潤三
  • 発売日: 1988/04/04
  • メディア: 文庫
 

一気に時は55年さかのぼり、1965年刊行の小説だ。この作品は『四畳半神話大系』のように、タイムリープパラレルワールドを扱ったものではない。本当に、そのような要素はかけらもない。

ただ、一つの家族の移ろいゆく時間が、静かに、けれども確かに描かれている作品である。私はこの本を読んだ時、ふつふつと胸の奥からこみ上げるものに、何とも言えず嬉しい気持ちになった。

それは、作品が醸し出すユーモアによって生まれた気持ちと言ってもいいかもしれない。しかし、ユーモアと言うのは少し大袈裟ながする。それはもっとささやかで、自然なものに思われるのだ。

 

この本の中に、印象的なエピソードがある。

本の主な登場人物は両親と子供3人の5人家族であり、物語はこの一家の父親である「大浦」という人物を中心に語られる。

ある日、大人2人でやっと持ち上げられるというくらい大きな甕を、いろいろの末に大浦が買い受けることとなった。何の使いようもない、大きすぎて家の中に置けないような甕である。こんなにかさ張るものを引き受ける心理は、現代に生きる私たちからすれば、なかなか理解しがたい。しかし、この家族は大切にこれを保管しておくのだ。

そのうち、大浦たち家族は新しい家に引っ越す。その時になってようやくその甕の梱包を外し、大浦は家の外でその甕をごしごし洗う。そこに、特別な感慨は描写されない。しかし、そこにはなぜか大きな満足感があり、朗らかで豊かな気持ちが感じられる。

そして、本当にこれだけで1話分のエピソードなのである。

 

 

今の時代からすれば、この甕の話はある意味、時代で求められる許容の違いというものを語っているのかもしれない。

土地が余って困っているという地域なら事情は違うかもしれないが、家の中にすら置けないほど大きく、しかも非実用的なものを、都市で生活する我々は許容できない。
しかし、ネットも携帯電話もない時代に求められたのは、むしろそういう「無用なものを受け入れる力」だったのではないか、と私は思うのだ。

どれだけ事前に確認しても、どれだけきちんと確かめても、当時は人脈こそが頼りである。たくさんの人の手を煩わせて、やっと必要なものを手に入れたとしよう。しかし、いざ現物を目の前にしてガッカリ……聞いていた話と全然ちがう……ということも、当然あったことだろう。

そんな時に役立つのはむしろ、次からはもっとちゃんと確認しよう、という力よりも、まぁこういうこともあるさ、とやり過ごせるような力だという気がする。

 

つまり、『夕べの雲』の世界では、経験則が通用しないのだ。

この物語も、ほとんど登場人物が同じ話が、1話ずつ語られていくというスタイルである。しかし、それは『四畳半神話大系』の語られ方とは全然違う。

登場人物が同じであっても、彼らはその時その時ごとに、少しずつ変わっていく。だからこそ、前やったことが今度は勝手が違ったり、状況が変わっているのに、また同じことをしようとしたりするのである。

時間は蓄積されるが、蓄積された経験は、活かされるとは限らない。しかし、その一回性がとても貴重なのだ。それが『夕べの雲』で流れる時間感覚である。

 

 ***

 

どちらの時間により魅力を感じるか、と問いかけたいところだが、おそらく『四畳半神話大系』の方が魅力的だ、と答える人の方が多いのではないかと思う。

私たちには大きな家もなければ、かさばるものをずっと持ち続けるだけの、精神的ゆとりもない。好き嫌いの問題ではなく、それはリアルな生活の問題なのだ。

 

現代の私たちは、一つ一つが異なる雑多な事象よりも、細部がちょっとずつ異なるバリエーションの生活に慣れている。絶対的な「個」を求めるよりも、細部を比較し妥当なものを選ぶ方が、効率のいい生き方なのだ。

時間によって、求められる感情も変わってくるのも、当然のことだと思う。私も、だんだんと自分がそうなってきているのを感じる。

 

もちろん、今でも思い切って大作に取り組めば、きっとそれに見合うだけの感情が得られる自信がある。私自身が、そういう感情を失ってはいない、ということにある種の自負を持っている。

しかし、そのように世間に逆行すること自体に、エネルギーが必要であることも、最近感じる。時間の流れに身を任せてもいいが、逆らいたいと思った時には、逆らえるだけの力を持っていたい。